沈黙のカテゴリー展

2021年3月20日
「沈黙のカテゴリー展」へ行きました。(画像転載許諾済)
https://twitter.com/RINTARO1123/status/1361310695766200330



2016~2017年に開催された長谷川新さんの「クロニクル クロニクル」展以来のクリエイティブセンター大阪(名村造船所跡)でした。


クロニクル クロニクル 展のレビュー
https://prader-willi.hatenablog.com/entry/20170328/art

クロニクル展のレビューはある意味で自分にとっての卒論のようなものになりました。何故20代の頃、アート制作に没頭したのか、フェードアウトしてからもう30年以上時間は過ぎましたが再考する機会となりましたし、今回の沈黙のカテゴリー展も、偶然facebookの情報で知り、クロニクル展の、さらにその先を感じさせてくれるのではと思いました。

家族と共に行ったので知的ハンディのある娘のケアの為、集中して観る事はできませんでしたが、それでもインパクトがあり、同じ場所で現代アートの括りで比較してしまうが、ざっくりとした印象として、クロニクル展が「ヒューマン/ノンヒューマン」を2年跨ぎで時間空間含め明確化したのに対し、今展は、それを未分化状態へ意識的に還元するようである。

より深く知りたいと帰宅後翌日、入場証として渡された、とても分厚いBLUEPRINTを読んでみました。

そこに記載されていた、石原吉郎「失語と沈黙のあいだ」というシベリア抑留者の詩人のテキストを読んで私は少なからず驚きました。そこに書かれていたのは、私の亡父もシベリア抑留者であったのですが、父が体験したことであろうし、また傍で私が見守ってきた父の世界そのものでは、と感じたからでした。他の若いアーティスト達のステイトメント等と較べると、あまりにも違和感と言うか世代も離れたこの詩人のテキストを何故、キュレーターの布施琳太郎さんは選んだのか?

直接、布施さんに聞きたくなり、翌週、今度は1人で再訪しました。
詩人たちの言葉を大事に表現する姿勢への敬意があり、その中で出会った詩人で、石原吉郎氏は故人で出版物も絶版で、このままでは人知れず消えてしまう懸念があったので、今回BLUEPRINTに転載されたらしい。

前回の概略の感想を伝え、それから会場を再度巡り、作品を時間を掛けて見ました。

新たに見えてきたものを含めて、私の個人的な記憶と作品群の表現とが密接すぎると感じ、冷静さを見失う。

私の個人的な事

亡父のシベリア抑留体験による、ある意味での失語、コミュニケーション能力の消失であったり、指の一部を凍傷により失ったこととPTSD、など
娘の染色体欠失による難病(このブログのタイトルでもあるprader-willi症候群)のこと、
私の仕事の建築デザインのこと、
現代アートととの関わり

展示作品について

モニター画面に自然のランドスケープのような光景と左辺へ坂を登る立体切り文字、動物たち、そして何でかロボット、遠くにゆらゆらする何かがある。

画面が切り替わり、道路と人工都市のような群、巨大ロボットと1棟だけ回転するビル。

ゲームのコントローラー用いての作品

再訪時に裏側の壁に設置されているゲームのコントローラー用いての作品を見て、さらにこの作品にシンパシーを感じました。
うまく操作できないもどかしさや、「遠くにゆらゆらする何か」が近づくと巨大な手であり、そこに立体切り文字が(背面で読み難いが)「バラバラになった手足に別の意識が宿る」と流れていき、BLUEPRINTで読んだ石原吉郎さんのシベリア抑留による失語体験のテキストの事と併せて私の亡父の凍傷で欠けた指先のPTSDが蘇り、奇妙な感覚になりました。
偶然、数日前に見たNHKプロフェッショナル 仕事の流儀庵野秀明スペシャル」で、庵野さんのお父さんが事故で片足を失い、子どもの頃から、その復活の奇跡を願っていて、エヴァンゲリオンにもそのような断片化した手足のイメージがたくさん出てくると知り、私の亡父の凍傷で失った指のことが改めて子供の頃の感情と共に蘇ってきていたのでなおさら強烈なインパクトを受けました。

自分の中で納めていた感情というか、悩みと言うか、何故か亡父の凍傷で失った指が左右どちらの指であったか、いくら思い出そうとしても確定できず、頭の中に左右の指先の欠けた手のイメージが現れては消え、混乱する。おそらく現れてくる手は父のものではなく、自分の手で、かつコントロールしようとして、うまくいかず混乱する。
鈴木雄大さんの作品世界に描かれているイメージが、瞬間に結び付きました。

人間は生き延びる為に、観察者中心座標系の変異を環境中心座標系が補おうとするが、それが過剰となり、さらなる混乱や不安を招いている、そのような光景ではないだろうか。

また、文字は巨大化しても意味を失わない限り文字性も失わず、スケールの恒常性というのか、一定のものとして認知され、それが背後から見るような視点で文字性を減じると(作者が意図的に文字の背後に廻れるように環境を設計したのだろうか)スケールを得て、巨大さを感じるのではと思いました。

有名なハリウッドサインを裏側から撮影した写真はスケールの混乱ぶりがユニークなように(左右対称性の少ない漢字はより顕著かもしれない)

人体もまた同様の文字性を持つのではないだろうか。

沈黙のカテゴリー展において、この事物の背後から見る視点や、反転形であったり、スケールと人間の関係や、人体の文字性を、可能な限り試してみる態度を、それぞれのアーティストが共有しているように感じます。


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これら群像を見ていて、外形からDavid Marrの提唱したvisionを連想した。
David Marr vision
http://s-f-walker.org.uk/pubsebooks/epubs/Marr]_Vision_A_Computational_Investigation.pdf
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私の娘の視覚認知の変異からの観察者中心座標系の変異についての考察
10年程前に、David Marr visionを参照した
https://prader-willi.hatenablog.com/entry/20120316/brain


裏側から見たハリウッドサイン(wikipediaより引用)
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都築拓磨

巨大な眼球に半身埋まる人物像。

最初に観た、鈴木雄大さんの「バラバラになった手足に別の意識が宿る」メッセージと、私が感じた「人体もまた同様の文字性を持つのではないだろうか」という問いが立体作品として連動するように感じました。

眼球として、人体の一部である限りにおいてギリギリ大きさの恒常性を保つようであるが、しかし赤い瞳に穿たれた孔から中を見る動作により、近接して人体性を失うのか、意味も失い(内部に何も無いのはその明示の為であろうか?)スケールを得るようである。
離隔と近接による人体性の変化を示す下部の眼球像に無理目な接続がなされている上部の半身像は、離隔と近接を繰り返しても人体性は当然失わず、上部と下部の眼球と、矛盾した構造を持つもののキメラのようで、説明的になりがちなテーマを、アートの方法で表現している稀有な作品ではないだろうか。
また、裸眼で自分自身の姿は見ることは出来ないが、眼球を取りだし外部化することで自身の姿を裸眼で認知したいという永遠に不可能な人間の願望の形象化であるかもしれない。
台座の造型が弱弱しく、とてもユーモラスで良いですね。


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宮坂直樹

建築家ル・コルビジェモデュロールによる階段状のオブジェ

私の仕事が建築デザインなので、モデュロールについては概略の知識としては知っていましたが、しかし現実の業務において活用する機会もありませんでしたし、また敬愛する建築家の磯崎新氏が師である丹下健三モデュロールやモデュールに依拠した設計手法から、自身の手法を獲得するまでの過程を赤裸々に語っておられますし(ル・コルビジェによる国立西洋美術館は日本側スタッフによるモデュロール適用の失敗例とまで言及している、これは今回改めて検索して知りましたが)
磯崎さんが丹下健三のモデュール手法から完全に違う方法を獲得したと言われる、群馬県立近代美術館を10代の終わりに訪問し、衝撃を受けて磯崎建築の強い影響を受けてきたから、という訳でも無いですがモデュロールについてはほとんど意識してきませんでした。(宮坂直樹さんの階段状のオブジェから群馬県立近代美術館のホールのオブジェを連想した)

今回、モデュロールをテーマにされているので、改めて調べているうちに、建築家の難波和彦氏のとても重要な指摘を見つけました。

「モデュールの現在」より一部引用

「歴史的に見ると、七〇年代初頭にモデュールやMC研究における転機があった。その最大の要因は七〇年代の一連のオイルショックを通じて、日本の中心的な産業が重化学工業からコンピュータ技術を中核とする情報産業へと構造転換したことにある。これにともなって生産中心主義的な社会から消費指向的な社会への転換が生じた。消費社会においてはリアルなモノだけでなく、フィクショナルなイメージ(記号)が商品価値を持つようになる。建築は物理的な存在であると同時に意味を帯びた記号となるのである。記号には物理的なサイズがない。記号においては、比例的関係だけが保存され、具体的な寸法は失われる。ならば記号に対して果たしてモデュールを適用することが可能だろうか。この問題がモデュールに対する視点の変化をもたらしたことは間違いない。」

記号には物理的なサイズが無く、記号化した建築にモデュールを適用することが可能だろうか、という問いはモデュールの問題だけでなく、とても射程の大きな問いと感じるし、先に見てきた鈴木雄大作品での、人体の文字性についての個人的な問いとも重なる。
建築と言う物理的に環境を構成し、現実的な環境中心座標系の手掛かりの最も情報量の多い存在が、実は既に相当に情報化・意味化して、スケールを失っていて、人間はでもそう不安では無いとしたら、むしろ快適であるとしたらという問いが有り得る。
磯崎建築への私自身の敬意はそこにあると感じていますが、
宮坂さんのモジュロールを現代において取り上げる意図は、それでも物理的に支配する空間が人間外の基準で構成されることへの抵抗なのか、否か、そこはよく分からない点ですね。

また、この作品のユニークな試みは、素朴な問いでもある「何でモデュロールはフランス人男性の平均体型が基準な訳よ?」を男子と女子の体型を基準に二つ制作してみせることで視覚化、構造化している。
(難波氏のテキストには、コルビジェモデュロール普及の為に途上、イギリス人男子の平均体型(フランス人より少し大きい)を基準に変更したとか、この辺りの政治性みたいなところも面白い)



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西洋美術館で用いたモデュロールは正しいか・日本にはないがらんとした空間─「磯崎新氏が述懐する丹下健三」後編
https://note.com/shinkenchikusha/n/nb70c07fb6737

魚段階の人間の胎児らしきものが何かを喋る映像

断片化した手足やオブジェの青色のコラージュ作品を移すモニターの映像

左右対称に並べられたテキストが左右からの読みで意味が異なる作品

逆廻しの波の映像

約40億年前に発生したとされる生命、それが一度も途絶えることなく私達の命として連綿と続いていることの奇跡は、科学が証明した人間の歴史においても最もインパクトのあるものと感じます。

ここで提示されている鰓弓の、魚類の鰓と人間の胎児の発達段階での鰓の発生との比較は、遺伝子研究含め今後も更新されていく内容含みでもあり、理解は保留としておきたいですが、ここで興味深いのは、音声含みの動画と静止画(もしくは静止文字とでも表現される)と次々とめくられていく青い静止画(主に手足の断片的な画を多く用いたコラージュ、布施琳太郎さんの解説ではコラージュをさらにトレースしたものらしい)と逆回転の波の動画と、
4つの時間の流れと認知を組み合わせた作品を同時に置くことで、可逆的な世界と不可逆的な世界とのキメラを作り上げているところと感じます。

鈴木雄大作品の「バラバラになった手足に別の意識が宿る」メッセージと連動するイメージが特に、次々とめくられていく青い静止画に感じます。ここでも再び亡父の凍傷で失った指のPTSDが想起されました。

生命は不可逆的な連続体であるか、という問いに、最新の科学のうち特にIPS細胞の発見は、細胞の初期化という驚異的なメカニズム(しかし年取った人間の生殖細胞から生まれた赤ちゃんが親の年齢プラスの細胞年齢で生まれては来ないという、皆が知っている事実も、神の領域としてアンタッチャブルな世界とされてきた)を人間が手を下した時代にあって、可逆的かもしれないと推論する自由は必要なスキルかもしれない。

私の娘の染色体欠失によるprader-willi症候群が医学の世界において注目されているのは、その原因に遺伝子インプリントの原理が関わっていて、両性の二つの遺伝子のうち、片親の遺伝子のみが働き、片方の遺伝子はインプリントされていて存在するが機能しない原理になっていて、その働いている方の遺伝子領域のみが突然変異で欠失することで、残っているのがインプリント遺伝子のみにて、様々な障害が発生するのですが、ではそのインプリントを解除する事ができれば、機能を回復できるのか?という研究が進み、現実にマウスモデルレベルでは既に研究が進められていて、意外と早期に人間においても治験や治療法として開発されるかもしれないのです。

そして、既に成長ホルモン治療を受けているのですが、その生産方法は、ヒト成長ホルモン遺伝子を、大腸菌の一種に遺伝子挿入し、ヒト成長ホルモンを細菌に産生させるという、細菌と人間のキメラを作る驚異的な技術によって、保険適用可能な低価格までに普及量産可能にしています。(細菌と人間のキメラを既に作っているという事に関して倫理的な抗議や疑義を訴える声を聞かないのも不思議と言えば不思議ですが)
そして現在のコロナウイルスワクチンにおけるmRNAを人工的に生成する技術も、同じファイザー社であり、技術の積み重ねは私達の想像の領域をはるか彼方まで拡張していますし、多くの恩恵を受けているとも言えます。

そのようなヒューマンそのものの定義が揺らぐ時代にあって、中村葵さんの、あらゆる可能性について、こだわらずにやってみる態度に、強いシンパシーを感じました。


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三枝愛

原寸場に残された過去の鉄骨製作の為の原寸図と原寸場の拓本制作の為の試行

若い頃に何度か鉄骨造の建築案件の原寸検査の為に鉄工所に行って検査した記憶が蘇る。
現在ではパソコン上でCADで描き直接CAM等でカットして製造するので、活用する機会もほとんど無いのでしょうが、過日はここのように、
設計図⇒原寸場で原寸図⇒フィルムに転写⇒鉄板に転写、加工という人海戦術が繰り広げられていた訳で、特に名村造船所の原寸場は広大で、原寸図も当時のままよく残っていて、ここをそのままアートの素材として扱う態度は共感できますね。

文化財修理の現場の手法でアート制作されているという三枝愛さんは、剥がれかけた床面を典具帖紙という専用の紙を養生に用い、散弾という重しで抑えている構成。

原寸場では、同じ物件の多くの個所の作図と、他の物件の作図も同時に行う事がある為、必然的にその描く対象物のゼロ原点はあちこちにあり、描かれた原寸図が混乱しないよう視覚的に認知判別しやすいように、色を分けて描かれる。ゼロ原点があちこちに散らばる光景は原寸場自体が環境中心座標系の平面的なゼロベースのようであり、最上階で屋根をトラス梁で飛ばして無柱空間とすることで技術的に可能としている。(4階の床がたわむと原寸図が変形し精度が落ちるので、3階の天井面というか4階の床を受ける梁成はとても高く、また柱も多数設置して荷重を分散し水平を保っていて、それがまたこの名村造船所の独特の雰囲気を形成しているようだ)

そのような圧倒的なこの場所の物理的な環境中心座標的な光景に触れながらも、再訪時、時間を掛けて、これらを巡りながら、他の作品やシベリア抑留者の石原吉郎さんのテキストや、亡父の凍傷で失った指のPTSDのイメージと、父が義肢を装着せず常に包帯を指先に巻き付け、毎日解いては巻きなおすを繰り返していたルーティンの記憶が蘇り、白い典具帖紙による養生と、亡父の包帯による養生(再生への祈りであったか)とが同じ意味として感じてきて、アートというよりも、どちらかと言えばセラピー的な世界を感じてしまいました。


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高見澤峻介

ろうそくの炎によりペルチェ端子で発電し、ネットワークサーバーを動かす装置が木製の柱に固定された作品

この作品を観た時に何故この位置に設置されたのだろうと思いました。作品の世界観からすれば、壁際で例えば分電盤等と同化して存在を曖昧化する方法と、むしろ原寸場の中に置いて、原寸場の多様なゼロ原点を可能にする環境中心座標系に楔するような形態と有り得たのではと感じましたが、(その意味で、BLUEPRINTの作品配置図のこの作品のレイアウトは不正確というか少し雑で、作者が意図的か否か分かりませんが、原寸場のかさ上げされた床面から少し退いた、どちらかと言えば曖昧な場所に支柱を立てた意味が伝わり難い)

おそらく、原寸場の多様なゼロ原点を可能にする環境中心座標系を乱さず、かつ明確な定位を図る意図が作者にはあるのではと推測しました。

定位を求める行為は現代人にとってとても重要で、ここでもスマホ利用して特設ページにアクセスすると、その人の現在位置等とリンクするようだ(私はガラケーとfree wifiipad利用なので、アクセス出来ず、最終的な内容は未確認ですが)

それで、free wifiの電波来てないか探したのですが、窓際に近づくと近くのコンビニのをキャッチしましたが弱くすぐに消え、また近くのsuper studio kitakagayaのをキャッチしましたがパスワード必要で諦めました。

知的ハンディのある我が子はある程度自力で通所できるのですが、時々彷徨してしまい、GPS検索せざるを得ない時があります。その度に技術の恩恵を感じるのですが、同時に私達の、今ここの、定位を求める欲望のようなものも強く意識させられます。

鈴木雄大作品で感じた、観察者中心座標系の変異や弱さを環境中心座標系が補うが、環境中心座標系によるサポートが過剰で結果的に、さらなる観察者中心座標系の混乱(今ここ的感覚の後退)を招く現代人の認知の状況を、ここでは小さな日常的なサイズの装置を用いて視覚化・構造化しようとする作者の意図かもしれません。



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松千

4階:切り抜かれた様々な性別・年齢の人体及びギザギザな異形の人間(なのか?)が手を繋ぎ並ぶシルエット、それらがLEDランプのコードで繋がっている。

1階:名村造船所跡の工事で出たガレキ置き場周辺に音源

ここまで辿ってきた様々な作品で感じた、いろんなテーマを再度確認するかのように作品が表れてくる。

鈴木雄大作品で感じた「人体もまた同様の文字性を持つのではないだろうか」という問い、

都築拓磨作品で感じた「裸眼で自分自身の姿は見ることは出来ないが、眼球を取りだし外部化することで自身の姿を裸眼で認知したいという永遠に不可能な人間の願望」(目玉を取り出し、神経をもしコードのように延長可能であれば自分の姿をみるであろう幻想)

宮坂直樹作品で感じた「モデュロールを現代において取り上げる意図は、それでも物理的に支配する空間が人間外の基準で構成されることへの抵抗なのか、否か」という問い(モデュロール批判の磯崎新氏が実際には群馬県立近代美術館以降の初期において、デュシャンの「3つの停止原基」にインスパイアされて、マリリンモンローのヌードのシルエットから抽出したモンロー定規を実作の平面や椅子の形状決定に用いた矛盾も連想)
これは新たな定規であるのか?

中村葵作品で感じた「生命は不可逆的な連続体であるか、という問い(略)可逆的かもしれないと推論する自由は必要なスキルかもしれない。」ことと繋がるような音の世界。

三枝愛作品で感じた「ゼロ原点があちこちに散らばる光景は原寸場自体が環境中心座標系の平面的なゼロベースのようであり」をZ方向に立ち上げたような

鈴木雄大作品&高見澤峻介作品で感じた「観察者中心座標系の変異や弱さを環境中心座標系が補うが、環境中心座標系によるサポートが過剰で結果的に、さらなる観察者中心座標系の混乱(今ここ的感覚の後退)を招く」ように、特に1階の音源の作品は、外部空間に開放されているが故に、隣接施設でのライブ音が遠くから届き、より環境中心座標系の感受性が高まり、私の観察者中心座標系はフェードアウトしていった。

「クロニクル クロニクル」展で、このガレキは作品として扱われていませんでしたが、施設のスタッフさんの意識の高さを感じさせるものであり、当時のレビューには、私は作品と同等の熱量でガレキに対してテキストを書いたので、作者がもし同様にこのガレキに対して意識していたのなら、嬉しいですね。


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