クロニクル、クロニクル!


会期中のギャラリーツアーやトークショーなどへの参加含めて、昨年4回、今年の2度目の展覧会も4回会場へ伺いました。ギャラリーツアーに高校生くらいの学生服の生徒さん達がたくさん参加していて、自分のもう40年以上も前の、現代アートとの偶然の幸運な出会いの頃を思い出し、その光景を再び繰り返し体験するようで感慨深いものがありました。記憶に残る素晴らしい展示、感謝です。

クロニクル、クロニクル!
http://www.chronicle-chronicle.jp/


繰り返し観たくなった理由は展覧会自体がとても刺激的だったことが第一ですが、キュレーターの長谷川新さんが3年前に80年代のアーティスト達への再評価に繋がるであろう「無人島にて 「80年代」の彫刻/立体/インスタレーション」展を企画されその事への敬意があった事(特に私が10代の頃に出会い現代アートを知るきっかけとなった敬愛する彫刻家の福岡道雄さんが含まれていた事への)と、日本の過去の美術批評の不在を変えてくれる、また展覧会という制度自体をメタな視点から展示されるスキルの可能性を感じたからでした。
無人島展は残念ながら見逃したのですが、その後の、the three konohanaでの「OBJECTS IN MIRROR ARE CLOSER THAN THEY APPEAR」展や、casでの椎原保+谷中佑輔「躱(かわ)す」展を拝見して、その都度感じたことがクロニクル、クロニクル!展のテーマとして織り込まれているように思います。
二つのギャラリーでの企画展から感じたのは、「人間(没入)/人間外」または「身体を必要とする/作家の蒸発」に関わることでした。
OBJECTS展で私は、次のように感想を書いていました。

http://d.hatena.ne.jp/prader-willi/20150301/art
福岡道雄さんの作品から受けた一つのイメージは、「意識は生き延びる為に瞬間的に世界を切り取り断片化し、それを無意識は緩慢に結合する」そんなものであったかなと思います。
特に黒いポリエステル樹脂で出来た波のオブジェや、初期のピンクバルーンのように、作品自体とそれを支える架台=世界との関係について考え抜いた結果辿り付いたイメージのように感じています。それはある意味で、浮遊するような形態へと、とても孤独な作業であったろうと。
今日の展覧会にそのような痕跡が意図されているのか、否か、見つめていました。(それはどちらかと言えば、浮遊する=垂直方向の、verticalな視線の)
それと同時に、アート制作をしていた頃に、アマチュアなりに関心を持ち探求していた、視覚と認知の問題、特に揺れ動くものの認知(観察者中心座標系と環境中心座標系の混乱でもある)に関して、そのまま深堀することもなく、フェイドアウトしていた様々な問題点について、ハンディキャップのある娘の誕生とともに、アールブリュットの世界を知ったことをきっかけに、アートセラピー的な方法論を求めてそれら問題群を改めて考え始めていた時期でもあり、その手懸りのようなものを、展示コンセプトや作品群のなかに感じることができました。(それはどちらかと言えば、眼球が並行に2個在るが故の水平の、horizonな視線の)』

また、躱(かわ)す展では

http://d.hatena.ne.jp/prader-willi/20151106/art
『 作者が蒸発したかのような椎原さんの作品と、作者が存在しないと成立しない谷中さんの作品(一日に何度かパフォーマンスされるらしいが、あいにく今日は時間が合わず観ることが出来ませんでした)を同時に観る経験はとても刺激的なものでした。』

これらの試みの延長線上に、クロニクル、クロニクル!展はあるように感じました。

以下は1年目のクロニクル、クロニクル!展のレビューの記録。

http://d.hatena.ne.jp/prader-willi/20160223/art
キュレーターの長谷川新さんは、一昨年の京都のギャルリ・オーブで開催された「無人島にて 「80年代」の彫刻/立体/インスタレーション」展で、私が心の師と敬愛する福岡道雄さんはじめとするアーティストたちの再評価の機会を与えられたことで、個人的にとても嬉しかったし、この何故か評価の低いというか、批評の土壌の無さ故の無理解とも感じていた同時代を今回もテーマにされているのか、もっと射程の長いものなのか、注目して観ました。出展されている19組のアーティストは様々な年齢、ジャンルの方々ですし、半数近くは既に亡くなられているかなり過去の作家さんでした。ほとんど知らないアーティストさんも多いので、個別の理解は、次回までに少しずつ情報などを得て、深めていきたいと思いますので、とりあえず、見終わって感じたことなどメモしておきたいと思いました。

webの資料で生年順に並べてみると、偶然か意図されたのか、年代によって、生年に隙間のような年代があり、気になってそこに、今回のコンセプトにもされている、ジェーン台風のような自然災害や、戦争、大恐慌といった、国家レベルの歴史的な出来事を挿入してみると、うまくフィットしました。

第二次世界大戦以前に生まれたアーティストさんたちの作品は、きっちりと細部まで作り込む、モダニティ溢れるテイストを感じます。

大阪万博以降もしくは80年代以降に生まれた若いアーティスト達の、座標軸が定まらないで、常に揺れているようなイメージもとても良い。

その中間のような、私も1958年生まれなので、この50年代に生まれた3名のアーティスト(笹岡敬、田代睦三、伊東孝志)たちには、強いシンパシーを感じますね。まだ携帯電話もパソコンも無いアナログな情報環境の中で生まれ育って、でも30歳頃からのデジタル情報革命の恩恵も実感しつつ、その両面の境界線を跨ぐように制作し続けているような、モダニティ溢れる前の時代の作家達と、新しい作家達のテイストの分岐点のように感じます。おそらくその時代に焦点を当てられたのが、先の「無人島にて「80年代」の彫刻/立体/インスタレーション」展だったのではと思いますし、まだ現役の選ばれた50年代生れの、私と同期のアーティスト達の作品が、今後どう展開し、繰返されるのか、とても楽しみと感じます。50年代生れの3名が、作品中に、机や黒板、笹岡さんは日用品の鏡を多数募集して反射用に設置と、日用品(=大きさに依存する世界とも感じる)を用いていること、それにより近接効果が生まれて居る事など、とても興味深い。

1年目のレビューでは、やはり80年代の私と同世代のアーティスト達を軸に観ていました。そこでは日用品(=大きさに依存する世界)=人間に近接する世界を強く意識していましたが、2回目の今年の展示を観て、それぞれの年代のアーティスト達への理解も深まり、2度繰返された展覧会を俯瞰すると、現役の作家たち全員が1度目とは異なる作品を作り、もしくは作品を入替えて展示されていて、個々の作品よりもむしろ、その変移のベクトル自体によりリアリティを感じました。より人間に近接していく作家と、逆に遠ざかる作家と。
そこで、そのベクトルを視覚化して並べて見ました。
基準として、以前拝見した、キュレーターの長谷川新さんのthe three konohanaでのOBJECTS展で感じた、「視覚認知の浮遊感(verticalな)=人間から離脱していく、とEMDRのような水平に揺れ動く視覚(horizonな)=人間に没入する」を縦軸にして、それからcasさんで拝見した「躱(かわ)す」展で感じた、「身体を必要とする/作家の蒸発」を横軸にしてみました。
物故作家さんはもちろん新作は無いので動かない筈だし、でもキュレーターさんの選択で追加等されていて本当は微妙に動いているけれど、とりあえず変移はゼロとしてそのままにしてみました。


変移のベクトルの強度が、故人→60年代→80年代→新しい作家へと強まっているように感じます。しかしその中で、持塚三樹さんの作品は新しい作品を今回制作されているのに特異点のように動いていないことに気付きます。この特異点のような世界も、おそらくキュレーターの長谷川さんのこの展覧会で伝えたい軸のひとつなのだろうと思います。

個々の作品について感じた事。

過去の作家達。
ほとんどの展示物がレプリカやマケットで構成されていました。これはでも私にとっては懐かしいというか、初めて美術館の展覧会というものを意識して観たのが1972年の京都市立美術館での「ゴヤ」回顧展http://www.tobunken.go.jp/materials/nenshi/6308.html
で、中学生だった私には黒い絵のある部屋の再現展示が衝撃的で、それが後日レプリカだったと知っても、その体験は忘れる事ができないものでしたし。最近の展示でこれだけレプリカやマケットをきちんとアートとして扱ったものがあったのか分りませんが、もっとレプリカに対する認識が変っても良いと感じますし、その問題提起でもあると感じます。

吉原治良<大阪朝日会館どん帳の為の原画>1951年(原画)2016年(複製)



会場で一番最初に展示されているどん帳の為の原画。具体美術の創始者を最初に持って来たところにキュレーターの意図があるのかもしれません。これからますます再評価されていくであろう具体美術ですが功罪含めての評価が必要ではないかと思いますし、最初に具体の存在を知った時、私は少し否定的な考えを記録していました。1987年に信濃橋画廊で知人の紹介で岡村洋さんと二人展をしましたが、岡村さんが前年の吉原治良賞グランプリ受賞されていて、また信濃橋画廊の地階で同時期に行われていた『吉原治良賞の6人展』を手掛かりに具体に興味を持ったのですが、具体美術に対しては「非決定論的な人間存在をメタ認知する装置としての無意識的な機械的決定論的方法」と捉えていて、一度その方法論にはまるとまるで麻薬のように逃れる事ができなくなるのではと記録していました。そのイメージはどちらかと言えばアクションペインティングやパフォーマンス系のアートに対して感じたイメージですし、ある意味で終る事の無い方法でもあり、行為を停止する為にはアクションを観る第三者とのイメージの共有が要請される類のものと思います。今回の吉原治良さんのどん帳の為の原画のレプリカは、まったく知らなかった初期の優れた絵画と工芸との協働ですし、新たなイメージを与えてくれました。しかしキュレーターのテキストにこのどん帳について、その光の表現に着目し『「制作者」と「鑑賞者」との境界線を融解させ身体をその空間内に没入させる効能を持つそれは、その後の「ゲンビ」や「具体」の中においても(略)』と重要な指摘があり、やはり通底するところがあることを感じさせます。

リュミエール兄弟<工場の出口>1895年

この世界で最初の映像作品は、9年前にremoさんのremoscopeのワークショップの際に上映されて拝見していました。
工場の労働者たちが工場の門からいっせいに出てくる光景のようですが、実際には皆、着飾った格好でかつ当時のフィルム映像の撮影限界の時間内に全員掃けていて、そこに明確な映画的な演出が加えられていることなど、remoさんから解説があったことなど思い出しました。

http://d.hatena.ne.jp/prader-willi/20081130/workshop
remoscopeとは、当時の技術の限界と同じ6条件で撮影した作品
1、 最長1分間
2、 固定カメラ
3、 無音
4、 ズーム無し
5、 無編集
6、 無加工

さらに2年前に国立国際美術館で再度remoscope的なワークショップをする機会があり、そこでもリュミエール兄弟のこの作品を観ていました。その際に他の時代の映像作品も上映され、1924年制作のこれはルネクレール監督の「幕間」という作品でしたが、デュシャンがチェスの場面で瞬間出演していて驚いたのですが、その時、映像の発明の時代に生れたデュシャンが何故動画作品を作らなかったのかと素朴な疑問を感じたことを記録していました。(デュシャンが作ったアネミックシネマはロトレリーフの記録映像と解釈しましたので事実とは異なります。その点、デュシャンの映像作品の存在について、facebook上で長谷川さんから指摘も頂きました)

http://d.hatena.ne.jp/prader-willi/20150207/workshop
デュシャンの生まれた1887年の2年後にはキネトグラフが発明されていますが、その前後に生きたアーティストの作品の方法なども興味深い。動画技術が生まれる前の作家と、以後の作家と。 例えばゴッホはキネトグラフ発明の直前の1890年に自殺していますが、彼の晩年の揺らぐ描画は、観察者中心座標系は揺らいでおらず、環境中心座標系の揺らぎを描いており、それは動画的技術の開発への人々の無意識の現われなのかと感じます。対して、デュシャンのように動画技術を知る世代でありながら、階段を降りる婦人像のような、分解写真のような描画をあえて描いた人も居る。何故、デュシャンは動画的表現を取りつつ、あえて、静止画としてのタブローや、大ガラスのようなものを描いたのか興味深い。おそらく、静止描画に較べて比較にならない程のリアルな情報量を盛り込める動画に対して、デュシャンは、多元的に見えていながら、単一の機械的なカメラからの視点での時制に一元的に圧縮されたものとして、動画表現に関わらなかったのではないかと空想する。そこから彼の、個人的な視点を崩壊させていく、様々な試みが始まっているかのように見えます。」

クロニクル、クロニクル!展の現役の二名の映像作家さんが2回目の展示において、映像を放棄してまったく異なったイメージの作品へ変移されたことと関連するのだろうかと連想します。

萩原一青<日本名城画集成>1978年

まったく知らない方でしたが、キュレーターの長谷川さんがOBJECTS展の際に開催された、めりカフェ出張編「抹消の痕跡をたどる─ルネサンス美術における上塗りと未完成」http://d.hatena.ne.jp/prader-willi/20150201/art
の冒頭の挨拶で述べられた、ジェーン台風関連の調査で、OBJECTS展より以前に既にこのはな区に来ていたというお話が、その時は何のこと言われてるのかよく分りませんでしたが、クロニクル、クロニクル!展のこの萩原一青さんの名城画を観て、繰り返し襲われた天変地異により作品が消失したことと、萩原一青の執念のような再々制作のことを読み、ようやく繋がりました。
繰返す天変地異との関連で言えば、神戸淡路震災や東日本大震災など、再び私達は同様の体験をしているとも言えますし、もう少し大きな時間空間のスケールで見れば、300年ほど前の17世紀のマウンダー極小期(1645年〜1715年 太陽黒点活動が極端に低下し、とても寒い時期であり天変地異も多発したたとされる)と、実は近年の太陽黒点活動の様子がとても似ていて、いずれ同様に寒い環境になっていくのではとの予測もあるようです。このマウンダー極小期の17世紀は私にとってはベンチマークのような時代で、現在からみれば、障害のある我が子と同じprader-willi症候群児ではないかとされる少女の肖像画をスペインの宮廷画家のファン・カレーニョ・デ・ミランダさんが描いたのが1680年頃とされていて、ファン・カレーニョの前の宮廷画家のベラスケスも同様に障害者の肖像画を多数描いており、遠因としてのマウンダー極小期太陽黒点活動の低下に着目しています。
また天変地異がきっかけで人生に大きな影響が生じ、その後に同じものを無数に作り続けた最も有名な人は円空だと思いますが、長良川の氾濫で母を亡くし(1650年)仏門に入り母への鎮魂として作り始めたのが円空仏であるらしく、尋常で無いその数の理由が理解出来てきます。その時期もまた17世紀のマウンダー極小期の時期。
クロニクル、クロニクル!展の萩原一青さんの繰り返し襲われ消失した名城画の再生に向けた姿勢にも同様の尋常でない想いが感じられますし、震災を契機とする再生テーマのアートはこれから無数に生起してくることを示唆する展示なのかもしれません。

斎藤義重<複合体501(立体模型)>1989年 他マケット等多数

1回目



2回目


斎藤義重さんもほとんど知らない作家でしたので、会期中に開催された石川達紘さんの講演会に参加して理解を深めました。
スライド上映された初期のタブローを拝見して、またその後の平面と立体の中間体のような作品(団体展で平面なのか立体なのか作品の帰属を巡り対象外扱いとなったエピソードもユニーク)、その後の繰り返し協働制作されたという複合体シリーズを見ていて、私は斎藤義重さんの中に構成失行的な傾向もしくは指向があるのではと感じました。平面絵画にリアリティを感じられないが故の立体への移行という説明よりも、むしろ平面絵画を描くことの困難さや失行的な傾向もしくは指向があるのではと推測しました。
同時に地球上で生きる人間にとって逃れる事のできない重力という目に見えない圧倒的な力とそれへの抵抗のようなもの。構成失行はそれを無効化する有効な方法であるのかもしれません。
クロニクル展の1回目からのこの1年間の間に起きた出来事で、個人的に興味深かったのが、イグノーベル賞に東山篤規さんの「天橋立股のぞき」の際に生じる視覚認知の変異の研究が受賞した事でした。(そこに視覚認知と体位方向=重力の問題が大きく関わっていますし)

天の橋立股のぞきはなぜ美しいのか
――感覚統合の視点から考える――
東山篤規 (立命館大学文学部)
http://www.ritsumeihuman.com/uploads/publications/99/11_1.pdf

マケットの提示のあり方も素晴らしく良かったのですが、可能であれば上記のような視覚認知上の問題を知覚できる仕掛があればさらに理解が深まったのではと感じました。

清水九兵衛


20代の頃によく通った堂島にあった、大阪府府民ギャラリー(その後の現代美術センター、現在のenoco)の中庭に清水九兵衛さんのアルミの立体が置かれていたこと、強い印象に残っています。府民ギャラリーは竹中ホールというこれも素晴らしい建築でしたし、1階にはカサハラ画廊が有り、主にイギリスの現代アートの展示がされていて、思い出すと夢のような空間でした。
竹中ホールは現存せず、今はそこには電通大阪(槇文彦氏設計)があり、清水九兵衛さんのアルミの立体へのオマージュではないかと思ってしまうような全面アルミ外装の素晴らしい建築となっています。
襲名された陶芸という手の触感に関わる大きさの世界と、アルミの立体という真逆の世界でありながら、空間や人間へのフィット感において共通した感覚が感じられます。

マネキン

1回目



2回目

これもまったく知らなかった近現代史。クロニクル、クロニクル!展に通底しているテーマの「労働」と「クリエイション」の問題が最も明確に提示されている。私達の都市に存在するありとあらゆるものは、誰かが考え、デザインし、また誰かが製造したのだという忘れがちな自明な事実を改めて気付かせてくれる。それにしても、このような匿名的な仕事の制作者の名前がよく記録されていたものだと感心する。

名村造船所のガレキ

これはクロニクル、クロニクル!展の展示作品では無いですが、名村造船所の1階のホールをリニューアル工事した時に出たガレキを、施設の管理者さんがその時にシンボリックに置かれたものであるらしい。
そのまま触らないで、何も置かないで、静かに距離を取っていて、まるでそれが過去のいわゆる「もの派」のインスタレーションではないかと、一瞬思ってしまうほど(もしくは置いた方がインスパイアされていたか)強度のある空間でした。そして、そのことをキュレーターの長谷川新さんが意識された上での、何も置かない判断だったという事を、氏のtwitterでの書き込みで知り、この方の思考の射程の深さに改めて感じ入りました。
そして名村造船所全体がクロニクル、クロニクル!展の、もうひとつの展示作品ではないかと感じる。

現役の作家達

三島貴美代<Push-C>1965年頃
この作家さんもまったく知りませんでした。作品は入替えていましたが方法はコラージュで同じ。しかし今年の作品は中央のイメージが偶然なのか意図されていたのか分りませんが、倒立顔(人や馬など)になっており、私達の視覚認知が上下に対して等価ではない事、視覚と重力に関わる問題が感じられました。

1回目

2回目

80年代のカテゴリーの作家たち
共通していた作品展示の、人体サイズにフィットした机や手鏡など日用品を多く用いることによる親和感は他の世代の作品より心地良く、2年目も同じ雰囲気が踏襲されていました。

笹岡敬<Reflex2017>2017年
笹岡敬さんの宙吊りのライトは仕込まれたファンによって随時水平方向に揺れ動く。まるでEMDR(トラウマ治療の為の眼球運動を伴う反復による心理療法=無意識世界へと落ちてまた帰還する)のような、人間の内へ没入するような。その揺れが2年目の作品においては振幅が小さくなり微細なものとなっていた。募集された無数の手鏡が光を反射する。身近な大きさの手鏡が親近さを産む。また様々なスプーン類が胎蔵界マンダラのように配置されていました。

1回目



2回目

東孝志<新潟県銀山湖にて>2005年
ここでも、日常的なスケールの高さの長机(展示台ではなく)による近接効果を感じます。
東孝志さんの1年目の孵化寸前の鶏卵を雪の中に置いて死に至らしめる(食材→命→生物の遺骸への偏移)作品が、2年目は湖底に石を沈めるプロセスの多面的な表現に変化していて、物質から生命へと、また物質へと還元されていく有り様が、湖底への垂直な見えない視線に織り込まれている。
人間にとって同じモノを見ても、美味しい食材と感じるゾーンと、他の生命の遺骸と感じるゾーンとは、無意識のリミッターのように逃れ難く埋め込まれていて、死を意識する時そのリミッターが緩み、自身もまた人間で無くなり、物質化することへの不安と、世界と繋がっていることへの安堵のようなものが同時に生じるのかもしれません。年齢的にもとても共感する作品世界でした。

1回目

2回目

田代睦三<絵画的な風景2017-模倣(そして物語へ)>2017年
田代睦三さんの多様な日用品=よく見かける量産品の折り畳み机や元々あった黒板、部分黒塗りの書物を用いたインスタレーションは、ここでも日用品を用いていることによる親和的な作用がありましたが、2年目に床に蛍光灯を破壊し破片をバラ蒔くことにより、その否定形を演出しているようでした。しかしそれは隠しようもない親和性を隠蔽することにはなっていない印象があります。大晦日のがらんとした都市の空間に違和感あるオブジェを置く作業も、それが画像として撮影されることで、風景と同一化している。大災害による水没を恐れてのビニールコーテイングが同一化を促進する。
黒板の重ねられた文字群が判読不能となっても、書物から全ての文字を黒塗りして隠蔽しても、言語から人間の世界から逃れることは困難であるということの証左となっているような。
窓から落ちる水はverticalな視線を産んでいるが、それも含めて丁寧に現代アートの緒テーマに関わる展示を設置せずには居れないような心配りにシンパシーを感じます。

1回目


2回目

牧田愛<断片01952>2016年他
こちらもまったく知らなかった作家。昨年と同じ作品なのだそうですが、ギャラリーツアーでキュレーターさんから、一年間の絵具の劣化を想定して作られた作品との説明を受けて、昨年の状態を思い出してみると確かに昨年の印象から金属的なラスター的な反射の印象が消失していることに気付きました。微妙な変化でより身体へと近付いていく。

1回目

2回目

川村元紀<Balance>2017年
こちらもまったく知らなかった作家。1回目から大きく変移した作品。
会場にもともとあった机や備品類全てを再構成するインスタレーション的なもの。1年目の構成は、日用品を用いていましたが置かれ方が収納作業に近い状態に感じて、80年代のカテゴリーの作家たちのような日用品としての近接感は感じませんでした。むしろ隣室に配置されたマネキンの視線が観客と決して焦点が合わないように作られているが故の無関心な様相(展覧会のテキストにより気付きました)となっているのと同調するかのように、こちらには何もメッセージを投げかけてこない。何気ない例えば青春ドラマの体育館の倉庫の中での一場面のセットを何も無い状態から新に作り出すのは、実際にはとても難しい作業である筈だけれど、そんなニュートラルな光景を意図的に作りだしているかのようでした。
それに対して2回目の構成は、はっきりとした形態を持ち、観客に強いメッセージを感じさせます。宙吊りにされたモノは、やはり重力に支配された人間の認知の限界を感じさせます。

1回目

2回目

谷中佑輔<Pulp physique practice>2016年他
casでの椎原保+谷中佑輔 「躱(かわ)す」展で拝見していました。1回目の展示でのパフォーマンスは、谷中さんがインラインスケートで滑りながら手に包丁持って、あちこちで野菜切ったり料理するところや、手の断片のモデル造型したりされてる衝撃的なものでした。造形も身体そのものに関わるものですし、またパフォーマンスも彼自身の身体が無ければ成立しないもの。ここでも偶然なのか会場の隣接する伊東孝志さんの作品から感じたような、食材と生物の遺骸との境界線に関わる人間の無意識のリミッターのようなものであったり、逃れ難い人間の身体の限界と可能性のようなイメージの連鎖を感じました。
2回目の作品が宙吊りのバラバラになった人体彫刻が新に加えられていて、私が敬愛する福岡道雄さんの、「飛ばねば良かった」シリーズを連想したのですが、ギャラリーツアーで、新作の床に置かれた石膏の作品が福岡道雄さんの初期の作品のオマージュである事を聞き、若いアーティストさんが再評価し作品化試みられていることは、とても良いなと感じました。性的イメージとしての肛門拡張器が挿入されていましたが、おそらく福岡道雄さんの作品にある隠れた性的イメージを適確に捉えられての事と思いますし観察眼の鋭さに驚きました。

1回目




2回目

荒木悠<Stray Dogs>制作1947〜52年 発表2017年他
the three konohanaでのOBJECTS展で拝見していましたが、その時の感想に「荒木悠さんの動画作品。浮遊する視線、揺れ動くものの認知(観察者中心座標系と環境中心座標系の混乱でもある)トラウマ治療法に最も効果があるとされるEMDR的な眼球運動を伴う心理セラピーの、アートにおける可能性について連想した」と記録していました。
1回目の作品は同様の印象で、また生物の死骸にまつわる表現も隣接する伊東孝志さんの作品との偶然なのか連動して感じられたのですが、2回目は大きく変移というか、映像作品というカテゴリーからも離れ、過去の戦後の輸出品のオブジェにまつわるコレクション的な展示になっていました(併せて、国歌君が代の放棄された初期バージョンのさらに編曲されたアメリカのカントリー曲調の音楽と)
ここで再びリュミエール兄弟の映像の時代に生まれたデュシャンは何故あの時代なのに、動画作品を作らなかったのかという疑問に戻ってしまう(デュシャンが作ったアネミックシネマはロトレリーフの記録映像と解釈しました)
おそらく膨大な情報を映し出せる動画 も、メタな世界像のように見えながら、カメラからの一元的な映像=網膜的な人間に没入的なものでしかなく、そのことへの抵抗があったのではと推測する。
荒木悠さんは今回動画作品から大きく変移されており、上記のような疑問に繋がることなのか、その動機はよく分りません。デュシャンが網膜的な作品を放棄し、文脈的な移動を含む知的なかつ偶然による構成失行的な作品へと大きく変移したことは、人間の限界を超えようとする時に、時代を超えて普遍的に生じてくることなのかもしれません。故にここでは変移自体が興味深い。

1回目

2回目

鈴木崇<K.A.A.B.A>2015年
こちらもまったく知らなかった作家。
1回目の複数の都市のランドスケープの光景が偶然連動したり繋がったりするスライド映像的な表現から、2回目は具象的な内容が一切消えて、googleの画像検索で一瞬見えてくる情報を簡略化した色面のみの表現へと変移していました。

1回目

2回目

持塚三樹<●●>●●年
こちらもまったく知らなかった作家。
持塚三樹さんの作品は2回目の今年、新作展示されていますが、他の作家のように1回目をベースに変移することなく、特異点のように動いていないことに気付きます。
指もしくは筆では無い何か固い道具で描かれたようなタブローは、皮膚の延長のように感じられ、皮膚によるコミュニケーションが言語を生んだとする説があるように、大きさに依存する筈の具象的なタブローですが何故か距離感を失い、切り取られたグラフィティの断片が言語文字性をどこまで細分化されても保持しているように、持塚さんのタブローも大きさに依存しない言語文字に近い性質を持つ印象があります。私が少し前から、関心を持つ、「触覚(皮膚=身体)/言語(文字)」の問題もクロスしてくるように感じます。大きさに依存する世界と、依存しない世界とが、明確に区分することが、困難であるように、上記の問題群も常に/のような関係性で生じているような。

1回目

2回目

遠藤薫<無題1(ドア)><無題2(ドア)>2017年
こちらもまったく知らなかった作家。
1回目の広大な造船所の近代遺産のようなガランとした4階の原寸場そのままの状態を見せた表現から2回目は大きく変化していました。
造船の設計から製造までの詳しい流れは分りませんが、私は仕事は建築設計をしているので建築でも鉄骨造の場合の現場監理で鉄工所の原寸場で検査を何度もした記憶がありますので原寸場の床の原寸図の痕跡は懐かしい。当時CADの無かった時代、ほとんどの部材を設計図から施行用の詳細図を現場が作成し、さらにそこから原寸場で床に描いて、さらにそれを透明フィルムにトレースして、それを鉄板に転写し切断加工するという、気の遠くなるような手間の掛かる作業をしていましたし、造船も同様の大変な作業だったと思います。(今はパソコンで描いた詳細図を透明フィルムにプリントしたり、直接鉄骨を切断する工作機械にデーターを送り加工出来ますので、原寸場も数少なくなっているのではと思います)
1回目の展示でそのような過酷な作業の痕跡が無数に残る原寸場をそのままの状態で展示されたことに、労働への敬意を感じまた当時を思い出して胸が熱くなりました。
2回目の展示は無重力状態での出産をイメージされていて、その表現の手掛かりを1933年にロシアの宇宙主義の科学者ツィオルコフスキーが想像で描いた無重力状態での人間の姿図を、これも原寸場のイメージの踏襲としてか、それを実際の人体を使って小麦粉を撒いてトレースするというユニークな表現をされていました。
1回目の何も無い原寸場と小さな音の表現は、水平方向の視線を生み、その揺らぎ(観察者中心座標な)は没入を、2回目の表現の垂直な反重力な浮遊(環境中心座標な)はメタな世界へ誘うと個人的には思っていて、無重力=垂直な浮遊へ変移したことがとても刺激的でした。
同時に撒かれた小麦粉を業務用ルンバが清掃しその幾何学的な模様も表現の一部となっていましたが、回収された小麦粉でパンを焼き、それをオブジェ的に岩のポイントに設置されているのも興味深い表現でした。最初、白い粉は小麦粉ではなく石灰のようなものと私は思い込んだので、そこから別の空想が広がりました。
都市を構成する材料の大半を占めるコンクリート、木材、鉄はそれぞれ生物由来もしくは生物関与の物質であることを改めて思いました。コンクリートのセメントの成分の石灰はサンゴや貝の死骸が気の遠くなる年月を経て海底に沈殿し石化し地殻変動で隆起したものですし、木材は樹木そのまま、また鉄もそのほとんどは、太古の酸素の無かった海に漂う鉄イオンが、酸素を産むバクテリアの出現で酸化し海底に沈殿した酸化鉄による縞状鉄鉱床がこれも地殻変動で隆起してのものですし、これら都市を構成する材料を普段私達は生物由来の死骸や生物の関与するものという風には感じないし、これも人間固有のリミッターなのかもしれません。(名村造船所1階のガレキはそのようなリミッターを緩める作用を意識したものなのかもしれません)
ここでの小麦粉の無機質に感じた表現がパンに加工されている表現も、同様に私達の感覚のリミッターに働き掛けるものであるのかもしれません。
クロニクル展の様々なテーマを全部持ち込んで、かつ素晴らしい作品に昇華されていました。
会場を訪れた観客の辿る足跡によって会期中に徐々に白い粉が消去されていく様は、身体の関わりをさらに進化させる効果を産んでいました。
最終日、搬出作業でほとんどの白い粉が除却され元の原寸図が再び浮かび上がる様は、あまりにも美しく落涙を誘う光景。

1回目

2回目