藤崎 了一「Vector of Energy」展

4月17日に拝見して、藤崎さんの作品世界に共鳴しましたし、以降、トークショーと、あともう一度、家族と再訪して、3回展示を拝見し、また直接会話することで理解が深まりました。

Gallerist’s Eye #2 藤崎 了一「Vector of Energy」
http://thethree.net/category/exhibitions
the three konohanaのwebより引用

マーブリングの静止画と動画、それに石膏によるオブジェ3点と、ギャラリーでパフォーマンスされた後の壊された家具類と、そのパフォーマンス映像と、多様な表現。
ちょうど、熊本の震災があった直後なので、特に家具を壊していくパフォーマンスは、少しショックを感じる内容でもありますが、個人的にはいろいろなイメージを連想させる、ユニークな試みと感じました。
the three konohanaの山中俊広さんの過去セレクトしてこられたアーティストさんに共通して感じていたのは、山中さんが独立されて、the three konohana以前に、最初に手掛けられた、「リアリティとの戯れ ‐Figurative Paintings‐」展 に感じた、不安げな、どちらかと言えば観察者中心座標系が揺れ動いているような、世界が断片化したような表現のようなものだったと感じるのですが、今回の藤崎さんの場合、他のキュレーターさんの視点(Gallerist’s Eye )からのセレクトという狙いもあるのだと思いますが、作品自体の表現には揺れ動くイメージを感じるのですが、作者の視点というのか、観察者中心座標系の揺らぎのようなものは、むしろあまり感じないで、背後にある、不変項のような強固なものを感じました。
藤崎さんご自身のトークショーでのお話でも、内面的な思いよりも、それが何で出来ているのか、またどうやって作るのか、という私もシンパシー感じる態度に終始されていたと思いますし、それら偶然の唯物と呼べるようなものへ寄添って作り出していく時、観察者の視点を不変項のように感じてしまうというのは、矛盾しているし、不思議に感じたところです。
相反したものが同居している。

家具を壊していくパフォーマンスでは、家具類に無意識に感じる親密さと、それが解体され消失していく瞬間のような。
少し前に名村造船所跡で拝見した、「クロニクル、クロニクル!」展で、1950年代生まれの3名の作家たちが、身近な机や手鏡を作品中に取り込むことで、実に親密な関係を生んでいたことと、新しい世代の彫刻家が、運搬用パレットに野菜や人体の模造の破片など置いて、またそれらをパフォーマンス的に壊す(一応料理のイメージらしい)、破壊衝動混じりなクリエイションとが、二つ重なりあったような、そんな印象がありましたが、藤崎さんの家具破壊のパフォーマンスには、同時にそのような表現が生じていたように感じます。
あともうひとつ、芸能の原点ともされる、鎌倉時代の踊り念仏のような、演者である僧侶とそれを見ている観客(信者)とが、しだいにトランス状態となり、床を踏み抜いて家を壊してしまうような、イメージも連想させます。
ここでも不変項のようにして生じてくる円環構造とその中心性をむしろイメージさせます。

一遍上人絵伝
http://www.emuseum.jp/detail/100156/000/000?mode=detail&d_lang=ja&s_lang=ja&class=&title=&c_e=®ion=&era=¢ury=&cptype=&owner=&pos=17&num=4

石膏吹き付けによるオブジェ群は、トークショーでその制作方法を詳しくお聞きできました。予想外な離れた距離からの石膏噴霧と、浸透させる着色の効果での、表面性ではなく、内実の持つ強度へのこだわりへと。最初の芯になる部分はやはり別構造で必要で、そこから始められる。
そこは始点もしくは原点としての、ゼロ点なのだろうか。それ故に強度を感じ、偶然のちからによる、予想外の形状発生よりも、不変項のような仮定のゼロ点のようなものを感じてしまうのだろうか。

マーブリング的な手法を撮影して得られた静止画と動画の映像作品に特に共鳴する。
表現はより純化していき、偶然の唯物だけに従って作られている。
Vector of Energy」という展覧会のタイトルの、Vectorは可逆的なゼロ点を必要とするものであるのか、必要とせず、偶然の唯物に寄り添うだけであるのか。

モダニズムの方法はまだその全てが試された訳ではないし、既に試された手法であったとしても、その再試行には意味があるし、可能性がある、と信じさせてくれる作品群と感じました。素晴らしい展示、感謝。