椎原保+谷中佑輔 「躱(かわ)す」

アーチャン支援学校お迎えの帰路、なんばで降りてCASさんへ行きました。

椎原保+谷中佑輔 「躱(かわ)す」
http://cas.or.jp/2015/Kawasu/index.html
CASのwebより引用

少し前にこのはな区のthe three konohanaで企画のキュレーターされた長谷川新さんがキュレーションされていたので、興味深く立寄ってみました。

the three konohana Director’s Eye #3 「OBJECTS IN MIRROR ARE CLOSER THAN THEY APPEAR」
http://d.hatena.ne.jp/prader-willi/20150301/art

椎原保さんの作品は20代の頃(といっても30年以上も前の記憶)に断片的に拝見していましたので、シャープな金属ワイヤー的なものとそれらに絶妙なバランスで支えられた自然物の石などのインスタレーション的な作品を、今日もそのようなイメージのまま伺いましたので、かなり予想と異なった作品世界で、正直、ギャラリーの方にどちらがどの作家さんですかと聞いてしまうほどでした。

椎原保さんの作品は写真家だったお父さんの遺品整理されたカメラや撮影された画像を構成されたものでした。
中央に置かれた古い大きな蛇バラのあるカメラは可触的で等身大の何かと比較の必要の無い、観察者中心座標系を示唆するように感じます。
部屋の壁に少し浮かして貼られた無数の小さな写真群。ネガよりも小さくプリントされているのか、もしくは一部を切り取っているのか分りませんが、視覚的光景が一瞬、圧縮されたような、縮小モデル化されたようなイメージを感じ、相対的な大きさの世界の環境中心座標系を示唆するようです。写された対象も屋上に積まれた角材を様々な幾何学模様に人が組み合わせていく光景。
ここでは、大きさの無い点のような観察者座標系と相対的な大きさの世界の環境中心座標系とが明確に分離されている。
私の敬愛する画家のモンドリアンが語った「事物の真のビジョンを獲得する為には、行為と造形的現象とを共に明確にすること」というモダニズムの結晶のような言葉を連想させる。
大きさの無い点のような行為そのものとしての、見る視点の装置としてのカメラと、造形的現象としてのプリントされた写真群。
このような関係性を作者がフェードアウトした視点で緊張感に満ちた造形物として再構成している。

谷中佑輔さんは私はまったく知らない作家さんでした。
椎原さんの作品と対照的に泥臭く、実際に土で出来た脆い生乾きのような造形物に生のトマトやバナナなど果物が埋められたりしている。
ここでは等身大の皮膚感覚としての造形行為と視覚的な現れが分離困難な撞着をしており、不気味なイメージを与えている。
狭いギャラリーをさらに仕切る間仕切壁の存在によって、観客は全体を見渡せず、逐次現れる奇妙な造形物や粘土製造機械を見ていく流れとなっている。

対照的な作品を並置されたのは、おそらくキュレーターの長谷川さんの意図であろうと推測しますが、作者が蒸発したかのような椎原さんの作品と、作者が存在しないと成立しない(一日に何度かパフォーマンスされるらしいが、あいにく今日は時間が合わず観ることが出来ませんでした)作品を同時に観る経験はとても刺激的なものでした。

追記:翌日、椎原保さんからコメントと一部補足を頂きました。感謝です、こちらに転記させていただきます。

的確なツィッター、ありがとうございます。
写真を、撮影した当時に感じていた、距離と大きさ、見え方の差異、限定的でありながら広がるイメージや世界、リアルとは、論理とは、虚構とは、、、走馬灯のように広がる意味と連携していく関係など、、、。
書けば書くほどに、とめどもなく増える意味などを感じながら現実の場に戻してやることで、今回のカタチが決まってきました。
大きさが感じられないことは、大きさを感じないこととは違い、むしろ大きさについて捉えていることにもなります。
書いていただいているコメントは的確な内容でした。
ありがとうございます。

補足です。
中央にあったのは、壁面投影の引き伸ばし機です。覗くことでカメラを、想起させるカタチで使っていました。カメラで取り込み、引き伸ばし機取り出すという可逆性が感じられることになります。
当時のことを、戻してやることでもあり、父から受けた影響を戻し、父の作品に還元的に重ね合わすことも、取り込みました。
補足です。