「カタルとツクルの映像ワークショップ」

中之島国立国際美術館へ朝からアーチャンと行き、ワークショップに参加してきました(カーチャンは風邪引きでお休みしました)
今日と明日、10時30分〜午後4時30分までという、この長時間何するんだろうと思いましたが、講師の会田大也さんのユニークなプログラムで楽しい一日目が過せました。

ワークショップ「カタルとツクルの映像ワークショップ」
http://www.nmao.go.jp/event/pdf/workshop2015020708.pdf
国立国際美術館のwebより引用

一日目は、参加者全員の自己紹介から始まりました。
我家はアーチャンのアートセラピー的な関わりから、様々なワークショップに参加していること、映像ワークショップに関しては、過去にremoさんの甲斐さんのremoスコープに参加したことなど話しました。(偶然ですが明日のワークショップではremoスコープ的なものもされるらしい)

remoスコープのワークショップ
http://d.hatena.ne.jp/prader-willi/20081208/workshop

講師の会田さんはメディアアートがご専門で、山口情報芸術センターに居られ、最近東京大学に移られたとの事。
最初に15分程の短辺映画を観て、参加者全員で見た内容を語り合いました。

幕間
https://www.youtube.com/watch?v=mpr8mXcX80Q
1924年
監督:ルネクレール
脚本:ピカビア
出演:デュシャン、マンレイ、エリック・サティ
(オリジナルは無声映画にて、今日の上映は無声で実施。youtubeのものは音
声有り)

これが、なかなか面白い映像でした。(映画の展開などはyoutube映像ご覧ください)
当時のシュールレアリズムのイメージで制作されているので、辻褄の合わないシーンやイメージの繰り返しなど少し難解な印象の映画でしたが、でも私がベンチマーク的に興味を持っているデュシャンが映画の中で短いシーンでしたが、バルコニーでチェスに興じる姿を演じていましたし、舞台になっている当時の活気に満ちたヨーロッパの都市の雰囲気がよく伝わってきます。
デュシャンがメインの映画ではありませんが、「大ガラス」の制作メモである「グリーンボックス」の最初に詩人のアポリネール夫妻とのドライブ旅行からヒントを得たとされる記述があり、当時の自動車が実際どの程度の性能で走り、現在とは雲泥の差であろうドライブの喜び感など資料を読むだけでは知りようの無い感覚を、ずっと想像していたので、今日のこの短編映画は私の関心に対して、全てのシーンが意味を持って現われてくるようで、そう感じ見えてきました。
アーチャンにはちょっとハードな内容でしたが、でもヨーロッパの当時のアンティークな雰囲気の霊柩車が後半主役のように登場したので、霊柩車好きのアーチャンは、メモ用紙にずっとそれを描いていました。
私も観たものをメモしていきました。

デュシャンがチェスを指している
当時のクラシックな自動車
射的の的の石が噴水で浮かんでいる(磯崎新さんの水戸美術館の噴水のオブジェ連想させる)
霊柩車をラクダが引いていく
霊柩車が街を暴走する
木製のジェットコースター
棺桶落下
死者の復活
魔術で皆消えていく
FINの文字が出てお終いと思いきや、幕を後ろから突き破り、消えた男が再度復活する(具体美術の村上三郎のパフォーマンスの原型を思わせる)

参加者全員で映画に何が映っていたかを挙げていき、それをスタッフさんがホワイトボードに書いていきました。そうすると、メモする程でも無いなと思っていたものや、見ていた筈なのに見えていなかったものなど、本当にたくさんの情報が詰まっていたことに改めて気付かされました。私はちょっとデュシャン的なイメージを追い求めすぎて、
いくつか映画自体の大事なポイントまで気付いていませんでした。
今日は参加者の年齢が上から下まで結構幅があって、そしてとても大事なポイントについては、10歳くらいの子ども達がよく気付いていて、映像にルーティンになってしまっている自分の感覚の刺激にもなりました。
皆で見たものを挙げていきました。(下記は私がメモしたもの以外に皆さんが指摘された登場してきたもの。

バレリーナ(下からの映像)
霊柩車
自転車
霊柩車のパンを食べる
神殿
大砲が人が居ないのに動く(「月世界旅行」のシーン思わせる)
鳥(ハト)が帽子に乗る
鉄砲

白い船
いだり車
ステッキ
ジャンプする
重力に挑戦(スローモーション)
人形(電車の中の風船人形)
霊柩車を追いかける人々

カメオ出演(友情出演)
水平でなく斜めの視点
映像テクニックを一杯使っていた
同じものの繰り返し(特にバレリーナの映像)
疾走感

講師の会田さんによるまとめ的なお話
分類していく事で見えてくるシナリオや物語のような背骨の部分によって、的が絞られ、筋がつながっていく。
今日見た映画はシュールレアリズム(意味が通じない世界観)であり、当時のフロイト夢分析の影響などもある。
夢は筋があるような無いような世界。
何かを見た時に「わからない」と思うとそれ以降はその対象について考えることをやめて関心が薄れていく。「わからない」を封印することで見えてくるものがある。

ここで午前中のプログラムは終了。
ランチ休憩のあと、午後1時から午後のプログラム開始。
午前中に観た短編映画の「幕間」を再度観て、細部まで皆で指摘したことによって、見方に変化が生じるのか、など試みる。そして、午前中には感じ無かったこと、新に気付いた事などをメモして、再度各自発表を行なった。ほとんどの人が最初見た時よりも時間が短くなったと感じていました。
私のメモ

チェス盤に土砂降りの雨の演出(合成)
街にも土砂降りの雨の演出(合成)
飛んでいく透明な傘
透明のガラスの上で踊るバレリーナ(最初見た時はガラスの存在に気付いてい
なかった。二回目のとき会田さんの指摘があり、そうと分ったが、指摘が無ければ二回目でも気付かなかったかもしれない)
逆さ顔が水面に合成される

デュシャンへの関心から様々なこと連想しました。
ガラス越しに見上げる繰り返し現われるバレリーナのイメージは浮遊する世界のシンボリックな表現のよう。
「大ガラス」のイメージとのリンク
以前書いたメモから

その1
デュシャンの生まれた1887年の2年後にはキネトグラフが発明されていますが、その前後に生きたアーティストの作品の方法なども興味深い。
動画技術が生まれる前の作家と、以後の作家と。
例えばゴッホはキネトグラフ発明の直前の1890年に自殺していますが、彼の晩年の揺らぐ描画は、観察者中心座標系は揺らいでおらず、環境中心座標系の揺らぎを描いており、それは動画的技術の開発への人々の無意識の現われなのかと感じます。
対して、デュシャンのように動画技術を知る世代でありながら、階段を降りる婦人像のような、分解写真のような描画をあえて描いた人も居る。
何故、デュシャンは動画的表現を取りつつ、あえて、静止画としてのタブローや、大ガラスのようなものを描いたのか興味深い。おそらく、静止描画に較べて比較にならない程のリアルな情報量を盛り込める動画に対して、デュシャンは、多元的に見えていながら、単一の機械的なカメラからの視点での時制に一元的に圧縮されたものとして、動画表現に関わらなかったのではないかと空想する。
そこから彼の、個人的な視点を崩壊させていく、様々な試みが始まっているかのように見えます。
30年前に出版された宇佐美圭司著「デュシャン」を読み終えたところなのですが、いろいろ興味深い記述がありました。
大ガラスの制作と並行して書かれ、作られたグリーンボックスのメモが、大ガラスのコンセプトでもあるらしく、その出発点が、デュシャンが友人達と出掛けた1912年のドライブ旅行であるらしい。1912年の頃の自動車て、どんなものなのか、よく分りませんが、現在の私たちがドライブした時の気分とはおそらく比べ物にならない、興奮とイマジネーションを刺激する経験だったろうと、思います。
当時の自動車がどんなものであったか、検索してみると、概ねオープンカーのようで、フロントガラスが衝立のように水平にニ分割されてあります。
大ガラスとは、ちょうどそのような車のフロントガラスに映し出される、車外の光景であったり、逆に映りこむドライブ仲間の姿であったのかもしれません。』

その2
『デッシャンの大ガラスの性的イメージで区分された2段のうちの下半分は、独身者(男性)の世界=透視図法で3次元の世界の2次元世界への投影として描かれている。透視図法という、ものの配置が一義的に無限遠まで確定可能な、ある意味で決定論的な世界と、上半分の花嫁(女性)の世界=雲のような不確定な形態すなわち非決定論的世界が、4次元世界の不可知な想像上の存在として、その断片としての3次元への連続体がさらに2次元へと投影されている、とても複雑な構成になっている。
しかし、上下の世界は金属の枠によって分離されていて、交わることがない。
デュシャンが大ガラス制作後、表向きには絵画の放棄をしていて、何故放棄したのか考えているうちに、結局、人間的な限界、視覚的網膜的な絵画の限界を超える試みをしながら、結局、それは絵画的表現によってしかなし得ないのと、大ガラスにしてみても、上下の空間次数に柔順な配置がやはり重力に支配されたノーマルな人間の感覚の表現になっていて、それを超えるような表現となっていないことへの限界を感じたのではと。』

それから、最も古い映像や有名なリュミエール兄弟の作品など鑑賞。
最も古い映像はほんの1秒ほどの作品でした。しかも静止画を連続してつなげて動画に仕立てた、仲間うちで楽しんだ実験的な映像でした。
参加者の女の子どもさんのお薦めのバレリーナのyoutubu映像。これをいつも繰り返し観ているのだという。驚嘆の浮遊感でした、まるで重力が無いかのような軽やかさ。
次に会田さんお薦めのネット上で公開されている様々な映像アーティストの作品を上映し鑑賞しました。映画でもなくドキュメンタリーでも無いような作品群。

安野太郎「音楽映画」

斎藤正和「休日映画」

前田真二郎「BETWEEN YESTERDAY&TOMORROW」

それから参加者の10歳の少年のお薦めの「マインクラフト」ゲームの実況もの。
それから見学者さんのお薦めの「CCレモンのCM」(パルクレールの影響らしい)

それから、最後に、国立国際美術館の地階で開催されている「フィオナ・タン」展の映像を参加者全員で何点か見て、また感想を述べました。

大きなスクリーンに坂を猛スピードで転がり落ちる男。手前の小さなモニターには静止画のような砂の上の右手(ずっと観つづけると微妙に砂が風で飛ばされ動画と分る程度の)私は朝TVで観た、新婚男性を坂の上から雪の上に放り投げる奇祭を連想した。痛みと祝福するような快楽とが同時に生じているような。

道を行き交う人々の姿を上下反転しただけで、まるで影の方が実態で、実態の方が影のように錯覚してしまう映像。
みんなで股覗きして見ました。

二つの大きな縦長のモニターに映し出される老女と若い女性。そして交互に現れるもの凄いエネルギー感じさせる滝の映像と轟音。津波的な破壊力を連想させもする。
老女から若い女性への生命の移りいく流れのような、生のエネルギーと、破壊衝動のようなものとが繰返すイメージ。

6枚の小さなモニターに映し出される様々な年齢の人々。家族なのか分らないが、とても決め細やかな表情をゆったりと捉えている。カメラ目線な瞬間があり、撮影者の視点と映像を見ている観客である自分と、写されている人とが一体になったような、親密な感覚がある。

たくさんの白い風船に吊られて浮遊する笑顔の赤ちゃん。フィオナ・タンさんの子どもさんらしい。他の作品にも風船などで浮遊する映像が散見されるし、基本的なテイストとして浮遊する感覚があるようだ。

そして最後に会場に戻り、今日一日で感じたことなど各自発表しました。
最初に観た、「幕間」の分析的な見方によっていつもとは異なる映像の見方になっていたこともあるし、また偶然なのか会田さんの意図なのか分りませんが、フィオナ・タンさんの映像にも感じられた、クリエイションと破壊のようなエネルギーの繰り返しのイメージや、浮遊するイメージなど、時代を超えて共通して感じられるイメージであるし、人間の豊かな表情が映し出される事でこちらに生じる感情のようなものを、改めて感じました。
丁寧なサポート、楽しい時間感謝です。
明日2日目も楽しみ。