「stolen names」展

23日午後、京都芸術センターにて「stolen names」展を観ました。
参加者非公表で作品のキャプションも無いという、実験的な展覧会。

stolen names
http://stolen-names.tumblr.com/

少し前にアートスペースジューソーで「フリースタイルダイアローグ」の対談させていただいた増本泰斗さんの「予言と矛盾のアクロバット」プロジェクト主催の展覧会(増本さんご自身が作品を出点されているか否かは分らないまま観ました)

フリースタイルダイアローグ
http://d.hatena.ne.jp/prader-willi/20141010/art

予言と矛盾のアクロバット
http://aaccrroobbaatt.com/

「フリースタイルダイアローグ」の対談させていただいて、1年後に本として編集され出版されたものを改めて読んだ時、私はそのほとんどの部分、座標系空間が必要なものについて語っていて、もしくは座標系空間を頼りに考えていると感じたのですが、その対談の最後のところで、提出したイメージ図に、意味の世界のことを付け加えていきたいと、ほとんど無意識に語っていました。
そんな事、それまで考えていなかったし、本当に無意識のちからは面白いなと感じました。
座標系空間が必要なものばかりについて語っていましたから、座標系空間を必要としないものを補おうとしたのか分りませんが、でもそこからいろいろと考えていけると感じましたし、今日の「stolen names」展は、その延長上にあるものとして捉えたいなと思いました。

「stolen names」展は出展者未公表で作品のキャプションも無しとありますが、私の場合は上記のような思いから、主催者の思惑から外れる観客なのかもしれませんし、また完全にキャプションを無くせるのかと言えば、不可避的に、どうしても様々な言語的なものが貼りついてきていますし(フライヤーに記載されている主催者の「予言と矛盾のアクロバット」のnameもそうですが、会場位置を示す、ギャラリー「南」「北」という掲示物の文字だけでも、展示物との関連から様々な事柄を喚起させますし、「京都」「芸術」「センター」というこの会場そのものを示すnameだけでも、もう充分に情報が溢れています)手懸りが何も無いという印象は無くて、作品はある意味で企画者の思いからは不完全な状態に置かれている印象がありました。

でもそれは展示という形式の持つリアルな姿を示しているのかもしれないと感じました。

作品を見つめながら、この展覧会の事を知った頃にテレビで受賞報道していたノーベル賞文学賞(テキスト的なもの)があるのに、何でアート部門が無いんだろ?(座標空間が要るからなのか?)そんな素朴な事を思いました。

言語や文字は座標空間を必要とするのかしないのか?どうなんだろうという思い。では意味の世界は座標空間を必要とするのかしないのか?

ギャラリー(南)の展示作品で、入口すぐに漢文らしき文章が床に大きな文字で直接書かれていて、その内容の詳しい意味はよく分りませんでしたが(おそらく反戦的な)言語や文字も表現においては座標空間を必要としていることを強調されているようで、そのことに、改めて気付かされました。
また、床に書かれた漢文のところどころにある伏字の塗りつぶし表現は、思想弾圧の恐怖を示すと同時に、黒い塗りつぶしが、文字と物質の中間体を示しているように感じました。
廻り続ける音の出ないレコードプレーヤーも弾圧の恐怖の暗示のようであり、同時に対話の失敗を示しているかのように感じる。
対話は時間的に不可逆的ですが、文字による記述は何度でも上書きされ時間の壁を容易に超える様=歴史の改変であるが、同時に過去に養分を送るクリエイティブな行為でもあるような。
アルファベット文字のレリーフが円盤に叩き込まれたようなオブジェはグラフィティのようであり失敗したブランドのようにも感じるように、軍人や戦闘場面などの画像とファッションショーのイメージが重ね焼きされた画像作品のように、ギャラリー(南)の作品群は、どれもが多義的な表現となっている。

最近ずっと娘の学校のPTA活動のイベントのお手伝いで、会場掲示物を作成しラミネートして会場にその文字を物として貼り付ける作業や、来訪者の名札作りなどを延々としていたので、文字の物質感を強く感じたところだったし。(来訪者の名前と肩書き等間違いなく記載することも大変なストレスである。一般の社会は「stolen names」とは対極的な世界にみんな生きているということ。でもベースのところは実は「stolen names」なんじゃないのかとも感じる。詐欺も不謹慎ではあるが認知レベルの真実がある)

また、先日拝見したこのはな区梅香のASYL の杉山卓朗「Loop」展通じて感じた、グラフィティの表現に関してのイメージの影響によって、文字や言語に対して今までよりも、より意識して観ているところがあります。

杉山卓朗「Loop」展
http://d.hatena.ne.jp/prader-willi/20141214/art

では、意味の世界は座標空間を必要とするのか否か?

モニュメント的なものを共有しようとすると、座標空間を必要とするだろう。

増本泰斗さんの「場所との対話 フリースタイル」展での、広島原爆ドームのイメージ図が竹刀のような棒に付けられ揺れる様に、それを考えるきっかけはあったと思います。
(最近モニュメントつながりで面白かったのは、サッカーのクリスチャーノ・ロナウドの巨大な銅像が建立されたのだけれど、顔があまり似てないと住民が困惑とのニュース。共感、共有しずらいけれど、共有せざるを得ない悲喜劇。
http://news.livedoor.com/article/detail/9604736/ )

ギャラリー(北)の展示空間に入り、たくさんのモニターから、ただ流れてくるさまざまな映像を何も考えないで見つめていました。(ささやかな幸福な瞬間のようなイメージたち)
海辺で戯れる青年たちの光景。
顔や名前を出さないラジオの収録の光景。
水玉を投げたり水遊びに興じる青少年たちの光景。
倒立画像の花火の光景。
鳥のようなオブジェを協働して作る男達のアニメーション。
偽ブランド物の紙オムツ巡るニュース映像。

意味の世界は座標空間を必要とするのか否か?について、さらに考えていく契機となる展示群。(異なるデザインの4本の脚を持つ机の上の様々なオブジェと共に置かれている地球儀が座標系空間を示唆するのか)

帰路、今日初めて見ましたが、京都芸術センターの中庭はテニスコートとしての利用もされてるようで、お年寄りたちがテニスに興じてる姿がとてもシュールに見えてくるというか、ギャラリー(北)の映像の延長ではないのかと感じてしまった。
テニスに興じるお年寄りたちの姿が、ギャラリー(南)と(北)のイメージをつなげている、戦争と遊びが混在するような。