「ばきりノす 音の展覧会、まほろば荘 音のすみか」展

帰路、夜にアートスペースジューソーさんへ、「ばきりノす 音の展覧会、まほろば荘 音のすみか」展を観ました(聴きました)
素晴らしい体験となりました、感謝です。

「ばきりノす 音の展覧会、まほろば荘 音のすみか」展
http://www.artspace13.com/
http://www.artspace13.com/img/a3.jpg
アートスペースジューソー

Breaker projectさんがここを開設されて訪問するようになり、カテゴリーとして、アート>ギャラリーではなく、アート>コミュニティと捉えている場所。
新・福寿荘内に谷川さんがアートスペースジューソー作られて3回目の企画展。
過去の企画はどれもユニーク。

前回の辺口芳典さんの「写ルンです」展は家族でワークショップ&作品展示に参加させていただいたし、オープニングの増本泰斗展での増本さんとの対話は過去の自分の考えを見つめ直すきっかけにもなった。

増本泰斗展で感じた、会場の新・福寿荘自体が持つ、人間の意識・無意識とそれをつなげる前意識の繋がりのような空間構成を、今回の展覧会では、そこに音や光、水、そしてこれは偶然ですが、冬の季節の寒さの体感の変化というような、様々な現象の濃度のようなものを連続的に感じることができました。(会期中の深夜の地震も記憶に残る)

特に、今回は展覧会の最初の状態に次々と手を入れて変化しているということで、お誘いもいただき、都合3回訪問したのですが、その都度の変化がより現象の濃度を感じさせてくれました。
音のような声のような歌のようなノンビブラートな響きや、1階に降りていくに従い深い闇に包まれていく感じが、何故か子供の頃のすっかり忘れていた記憶を呼び覚ましました。

小学校の4年生の頃、放課後なぜ入ったのか記憶に無いのだけれど、合唱団で毎日、毎日、発表会に向けて同じ曲を、半年くらいでしょうか、歌っていました。さすがに毎日同じ歌詞を歌っていると、ルーティンになってきて、体が覚えて、周囲の歌声にも包まれて不思議な浮遊感というのか、言葉の意味ももう分らなくなって、音に近いような感じを体験したことが蘇りました。感覚的なことと、そこから離れてある意味でメタな視点を持った最初の体験であったのかもしれません。
それと、これは別の経験ですが、娘のアーチャンがお世話になった、音遊びの会さんの「音の海」のライブで購入した大友良英さんのCDを聴いていて、これは全編ノイズ音楽だったのですが、最初壊れているのかとさえ思った音楽が、繰り返し聴いていくうちに、子供の頃、雨の音が傘やカッパにはじけて、カッパの黄色い色彩に全身包まれる感じやパリパリと乾いた音がするのがとても好きで、毎日、天気の日でも雨具を持って幼稚園に通ったことを思い出したこと、その事も繋がって思い出しました。
その頃に観た、雷が至近距離で落ちた瞬間を家の窓から、1人で目撃した瞬間の閃光への驚きのイメージも思い出しました。

子供の頃に住んでいた田舎の、土間や五右衛門風呂や大きな掘り炬燵のある田の字型住居での生活は、おそらく私の無意識レベルにあって、今も思考を支えてくれているように感じます。庭には柿の樹があり、井戸もあり、牛や鶏も飼っていました。全てがビオトープの中の一部のような環境でした。それらも思い出しました。

1階の廊下の突き当たりの場所に展示されていた装置が、初回はこちらの持っている光に反応してONになり光を放ったりしていましたが、2回目の時にガラスのびんの中の小さなモーターが反応して振動する仕掛けに変わっていました。

以下は連想の連鎖。

これらの装置もいろいろな事を連想させてくれました。
微妙な振動のイメージから、何故かタルコフスキーの映画「ストーカー」(ゾーンという立ち入り禁止区域に入り帰還すると超能力が得られるという奇妙な設定)のラストに生じる小さな奇跡のイメージが喚起されました。
併せて、そこからタルコフスキーの映画もそうだし、私自信も好きな哲学者プラトンの唱えた四大元素説へと連想は繋がる。
今回の展覧会もそのような四大元素説的なイメージで作られているのではと連想してみました。

四大元素とそれに対応するプラトンの正多面体。
火=正4面体
土=正六面体
大気=正八面体
水=正二十面体
(そして秘密とされた正五角形による正十二面体が宇宙全体を表す)

展示物と四大元素説とを対照してみると、

火=照明(もしくはギャラリーの暖房)
大気=音や歌を伝える媒体
水=水場のオブジェ
と並べてみて、土に対応するものが無いなと思いました。でも2回目に伺った時に、外部の庭に近日作品設置とあったので、これではないかと推測して、3回目に伺った時にはそれだけを注視して観ました。
果樹から聴こえる歌は谷川さんの説明では土の中にスピーカー埋めているとの事。
予想に近いものであったことからか、もしくは幼い頃に住んでいた家の庭の果樹(それは柿の木なので、ここのビワの木とは少し違うけれど)にロープを掛けてもらいブランコにして遊んだ記憶が蘇った為か、嬉しい気持ちを感じました。

帰宅後、連想は続きました。

1階の突き当たりの装置から観じたタルコフスキーの映画「ストーカー」への連想から生じる様々なこと。

10年近く前のNHK大河ドラマ三谷幸喜の「新撰組」がタルコフスキーの「ストーカー」を下敷きにしているのではと思って(京の都という「ゾーン」に江戸の若者たちが向かい帰還した時に起きる奇跡の物語)そこから「新撰組」に観られる四大元素説的な表現について、ずっとブログに書き続けていたこと。そしてそのイメージの連鎖が予想もしなかったような娘のアーチャンの救済に結び付くような情報をもたらしてくれた奇跡と。
そこに私はこんな風に書き込んでいました。

新撰組!」第49回(最終回)「愛しき友よ」を観る
(2004年12月12日)
http://d.hatena.ne.jp/prader-willi/20041212/drama
ラストの近藤勇処刑の場面、リアルなスケールだけれど、何となく箱庭のような作りでもあり、心に残る。このドラマ1年間欠かさず観つづけたものとして、隠れたテーマというのか、「大地、水、大気、火」という四大元素説的イメージを強く感じさせるところがあり、ラストのイメージが、それをどう総合するのか凄く楽しみであった。(近藤勇というキャラクターへの思いは僕の場合、希薄だったかもしれない)
当初、圧倒的であった水のイメージが終盤に来て、描かれなくなり、それはおそらくラストを盛り上げるためかなと思いつつ、実際の処刑場で水のイメージが、どう描かれるのか、よく分からなかったんだけれど、セット作られた方のコメント読むと、実際の処刑場がどうであったか、ということは、とりあえず置いといて、多摩の自然を連想させる、イメージに作られたという。処刑場の中に川が流れていて、刑執行の直前に、土手が削られ、「土」が掘り起こされるという、念の入った演出、記憶に残るシーンですね。

そして、その年の新聞の書評欄に佐倉統さんというある科学者さんが、年間ベスト3の発表と同時に、何故かその方も新撰組が好きだったらしく、科学書の書評とまったく関係無いのに、新撰組を絶賛されていて、私も共感して、たまたまそこに本業として書いておられた科学書を図書館で借りて読んでみようとアクションしたのです。

新撰組!
http://d.hatena.ne.jp/prader-willi/20041226/drama

そこに紹介されていた、マット・リドレー著「柔らかな遺伝子」を図書館で借りた頃、帰路、駅の中古本屋にも立寄った時、同じマット・リドレーさんの別の本が目に止まりました。
そして何とそこに17世紀のスペインの宮廷画家のファン・カレーニョ・デ・ミラン
が描いた、現在の知見からすると、アーチャンと同じprader-willi症候群とされる少女の肖像の話題が書かれていたのです。

マット・リドレー著「ゲノムが語る23の物語」
http://d.hatena.ne.jp/prader-willi/20050116/art2

マドリードプラド美術館には、十七世紀の宮廷画家ファン・カレーニョ・デ・ミランダが描いた二枚組の絵がある。(中略)少女の名前はエウゲネス・マルティネス・バリェッホ。(中略)いま見れば、この少女はプラダーヴィリー症候群という珍しい遺伝性疾患の典型的な徴候を示している。

そしてこの絵を通じて、発達障害児の右脳優位説の自分なりの確証も得られたのです。

発達障害、脳の活動場所に違い 三邉金大教授ら確認
http://d.hatena.ne.jp/prader-willi/20120316/brain

また、この絵が描かれた1680年頃が実は人類有史上で最も寒かった時期、マウンダー小氷期でもあったらしく、太陽黒点活動の低下と様々な天変地異との関係など、現代の状況と酷似していることも知りました。
今の異様な寒さもまた、宇宙的な規模での変異の影響のひとつであるかもしれません。

長引く太陽活動の停滞、小氷期の到来か
http://d.hatena.ne.jp/prader-willi/20090506/memo

巨大地震:太陽の黒点が少ない時期ほど頻度高く
http://d.hatena.ne.jp/prader-willi/20110926/memo

もともと、経験した事の価値判断についてはニュートラルに捉えているところもあるし、これに何の意味があるのかとか考え過ぎて排他的にならないよう、思考を停止させないで、イメージの連鎖を楽しむようなところがあるし、今回の展覧会は流動的で連続的なイメージが、こちらに強く作用して、忘れていたような記憶やイメージを呼び覚ましてくれたように思います。
そこからまた新たな奇跡が得られないかと想像もする。

増本泰斗展で私が感想として書いていた「流動的な世界の中でジャッジする瞬間は切り取られた静止像となり、それらが繰り返し生じていること、そしてそのような流動的な場の視覚体験が高揚感や心の安定を生むのではないかと」は、今回の音や歌のイメージにおいても同様と感じるし、具現化されていたと感じる。ギャラリー内の壁画はそのあらわれと感じました。