結城 加代子 「SLASH / 09 -回路の折り方を しかし、あとで突然、わかる道順を-」

6月9日(日)にギャラリーにお伺いした時の感想。
毎回、刺激的な企画展される山中さんですが、オープニング展の前回はご自身の企画によるギャラリーの推薦アーティストさんの伊吹拓展で、今回はギャラリーの3つのコンセプトとされている内の一つDirector’s Eyeとして、外部からディレクター招聘されての企画展でした。

the three konohana
Director’s Eye #1  結城 加代子 「SLASH / 09 -回路の折り方を しかし、あとで突然、わかる道順を-」
http://thethree.net/category/exhibitions

結城加代子さんのことも、出展されている3名の作家さんたちも、誰も知らない方ばかりだし、展示内容もとても刺激的でしたが、謎の多い構成に戸惑いました。一言では表現しきれない複雑なものと感じますし、見てから印象が言葉になるまでに時間が掛かります。
思い返すと、山中さんと知り合ったのは本当にラッキーというのか、妻の友人の銅板画工房のグループ展見た後、偶然立寄った近くのYODギャラリーで。そして独立されての、なんばパークスでの企画展(リアリティとの戯れ〜 Figurative Paintings〜)を拝見して(これも妻が大阪芸大出身で、大阪芸大の方々による展示でなおかつアーチャン向きのワークショップがあったのでそれ目当てに行きましたが、会場で山中さんから声掛けられるまで、それが山中さんによる企画とは知らなかったし)
以降、奈良大和郡山の旧川本邸でのHANARART展や、再びなんばパークスでの今年の企画展(ボーダーレスのゆくえ)など、刺激的なアートを提示していただけるので、とても楽しいですが、難解で分からない部分もあり興味が尽きません。
今まで拝見した企画に通底しているように思うのは、意識と無意識の間を往復している、こころの働きのようなものへの眼差しと、個人の発想の狭い枠をいかにして超える事ができるのかということへの探求(そして意識のネジをいかに緩めるか)ではないかと感じています。

旧川本邸でのHANARART展での感想にわたしは下記のように書き込んでいました。
http://d.hatena.ne.jp/prader-willi/20121103/art
「以前、拝見した「リアリティとの戯れ〜Figurative Paintings〜」展の時に感じた、アールヴリュット的表現を偽装する人たち(それは個人的には悪い意味でなく、脱抑制して無意識世界の爆発的なエネルギーのあるがままの状態と抑制的な意識世界との振幅を行き来できる人というイメージ)という印象と、今回の元遊郭という、ある意味でごく普通の人が日常的に生じているsex体験=脱抑制をビジネスとして制度化して空間化(抑制的世界へ)しているものとが融合しているという点で、共通しているのではと思いました。」
「いずれの作品にも共通して感じられたのは、作品世界へ一歩踏込むことで、そのイメージの中へ没入していき、同時に意識の世界へ戻ってこれる体験を産み出していて、この旧川本邸の空間の特性を活かしつつ、仮設ではあるけれど、恒久的に在っても許せるクオリティとなっていた」

そのような二つの企画展の、少し重いようなイメージとは対照的に、今年拝見した「ボーダーレスのゆくえ」展の感想には
http://d.hatena.ne.jp/prader-willi/20130321/art
「誰かが作り出した事物に関り変形を企てつつ、アーティスト固有のバイアスの掛かった視線は存在している筈だけれど、どこか希薄で、蒸発してしまったかのようなそんなイメージが残る。しかしそれは未来に向けて必要な資質と感じる。そう信じたい。」
と整然とした空間構成や作品イメージからそう記していました。

そのような記憶を思い出しつつ、今回の「SLASH/09 回路の折り方を しかし、あとで突然、わかる道順を−」を観た時に、山中さんの対照的な企画展のイメージや空間の様相が並存し、どこかで混じり合っているようにも感じました。
それは結城加代子さんの元からのイメージなのか、もしくは山中さんのイメージを分析的に構成されたのか、もしくはその両方なのか、分かりませんが、明快な意図を感じました。
無意識世界へと向かうような混乱した様相と、個人の想像力が蒸発してしまったかのような希薄な世界とが重なり合う。
ギャラリーに入った時に、山中さんから、糸を張り巡らした作品に注意してくださいと言われていたのに、すぐに頭を引掛けそうになるくらい弱い存在感(意図的な)の、藤田道子さんの作品群。
非常時用の様々な防災グッズにメッセージの文字を貼り付けた小林礼佳さんの作品群。
わたしがライフテーマにしている「顔/カオス」的世界を映像化したような、顔や手のような、果ても無く続く世界の中でそれが存在することで、わたしたちは不安では無いと感じられるようなイメージで、それが高速で画面が切り替わる斎藤玲児さんの映像作品。(入り隅にふたつの映像が投影され、左右別の映像が動き始める)
それぞれ異なる個性の作品のようであり、知らなければ一人の作家による表現のようにも見えてくる。
山中さんに案内していただいて、ホワイトキューブな展示室のさらに奥のスペースのさらにそこから屋外に出たところに(まるで空中に浮いた地下室のような)小さなバルコニーとそれに続く小さな階段があり、そこに潜り込み体を縮めて投影される斎藤玲児さんの映像作品を観る時に、それが映像自体もさきほど見た、ホワイトキューブな展示室の入り隅に投影されていた映像の縮小版ではないかと気付き、スペースの圧縮感と体を階段に合わせて、体を縮めての姿勢と、映像の圧縮感とが合い混じり、急にそこで今まで観た空間やイメージなどが全部圧縮されたような、不思議な体験になりました。
(帰宅後、数日してわたしは、反時計周りに上昇する階段の踊場が急に狭くなって、体を挟まれる夢を見て、すぐにそれがこのギャラリーでの体験の影響と思いました)
そのイメージの圧縮体験のような、通過儀礼のような体験通じて、不可避的に生じてくるようなメタな視点で、ギャラリーに戻りながら、今見てきたホワイトキューブのスペースの作品群を再度見ることになる。
その体験について思いながら、以前参加したデュシャン関連のイベントのことを思い出していました。

友人が経営するカフェのシェ・ドゥーヴルの隣にあるspace_inframinceで開催された、「Hommage à Marcel Duchamp/デュシャンへのオマージュ」展
http://d.hatena.ne.jp/prader-willi/20110717/art
(友人のカフェがドリンク提供等で協賛して情報知ったのでラッキーでした)
国立国際美術館でのデュシャン展を美術館研究員として企画された平芳幸浩さんのトークショーでした。その際、質疑応答でこんな事をお聞きしてみました。
Q:「国立国際美術館での展示で、初めてデュシャンのことに興味を持った。その中で、初期の作品をミニチュア化してアタッシュケースに納めた作品が、その前後において、作品のスタイルがまったく変わったように感じられたが、展示において、特に意識してレイアウトされたのか?」
A:「展示自体は時系列に並べたもの。実際アタッシュケースの作品を制作した以降は、デュシャンは過去の作品の編集的なことが中心になっていった。実生活もコンセプチュアルな世界から、実際の生身の人間としての皮膚的世界を感じさせるようなものへと。顔面の皮膚の病気に悩むなどまた、アタッシュケースの作品の一つを愛人にプレゼントしているが、自分の精液でカンバスに描いたものを添えたりと生々しい。」

今回の「SLASH/09 回路の折り方を しかし、あとで突然、わかる道順を−」での、屋外バルコニーの階段部に設えられた圧縮された映像と空間のイメージの演出は、このデュシャンの転換点のような、作品のミニチュア化、アタッシュケースに納めていく方法ととても近いように感じました。そしてデュシャンアタッシュケース化の作品はデュシャン自身にとっての世界のメタ化を促したに違いないと想像するのですが、しかしそれを観る人はその作用をイメージとして体験することは出来ず、客観的に観ているに過ぎないけれど、今回のような、観客体験型のような試みでは、観客自身がそのようなメタな視点を持ちえるような、そんな印象があります。
しかし、個人的には、通過儀礼的なものは、あまり好きではないし、今回の展示での意図が実際はどうであるのか、まだよく分からないところですね。
意識のネジをいかにして緩めるか、様々な方法があり得ると思いますが、ここにはその多様な方法が、参加されたアーティスト三者三様に、とても弱く薄く感じるようなやりかたで構成されているように感じました。