「ボストン美術館 日本美術の至宝」展

午後、大阪市立美術館へ家族で行き、「ボストン美術館 日本美術の至宝」展を観ました。

ボストン美術館 日本美術の至宝」展
http://www.boston-nippon.jp/

すごい人出で混んでいましたが、作品が見れない程の混雑ではなく、それぞれじっくり見て廻りました。展覧会の内容について予備知識無く、ふらりと行ったのですが、とても良かったですね。
アーチャンはパンフレットの龍の絵とか怖かったらしく、入館前は嫌がっていましたが、地獄草紙など鬼が釜で人茹でてる残酷な場面など、本当は結構好きな様子で見ているうちに前のめりになっていました。
当時の日本人がこれら美術品をどのように評価していたのか、持ち帰った西洋人たちの意識など、歴史的なことは分かりませんし、作品を純粋に観るということに集中しました。
表現の中に、無意識的レベルのうごめきのような物があり、それが平安時代の絵巻物にもあったものが、近世近く抑圧されたのか、きらびやかな表現のなかに消え去っていき、そして再び笑いのようなものの力を手掛かりに噴出してくるような、大きな流れを感じさせてくれました。
第一章「仏のかたち 神のすがた」
仏像や曼荼羅があると思っていなかったので、新鮮でした。
信仰対象としてではなく、美術品として収蔵保管展示されてきたんだろうと推測しますが、保存状態も良く、また修復もおそらくされてきたもの中心に展示されている様子で、曼荼羅などは日本のお寺や神社が所蔵しているものの展示と較べて鮮明に感じました。(少し前の屏風展でも同様の印象感じました)
仏像はやはり快慶の弥勒菩薩立像が美しいですね。左手に花器のようなものを持ち、右手は下にさげている。写実的でかつ微妙に非対称な体の流動感が印象的でした。
たまたま偶然ですが、朝から17世紀のスペインの宮廷画家、ファン・カレーニョの描いた、アーチャンと同じprader-willi症候群の娘さんの肖像画について考えていて(患者家族会の交流会でアートセラピー的な試みしている我家の取組みを話してもらおうかと主治医さんが仰ってたの思い出し、話題として適切かと)その特徴として、食行動の異常さを示す象徴として、両手に果物を持ち、左手を少し上げて右手は下にさげた姿が印象的で、おそらく観察眼の鋭いファン・カレーニョは、一瞬にしてこの少女が両手利きで、どちらかと言えば左手優位なこと見たのではと想像していて、最新の脳科学の研究で明らかになってきた、発達障害のこども達のほとんどが右脳で判断しているという事実と符合してくるなと。(アーチャンも普段は右利きですが、ボール投げたり遊び系は左手使うので両手利きの様子)
それに対して頭に浮かんだのが、所謂ブッダ誕生の際の伝説としての天上天下唯我独尊の姿に象徴的な右手優位な世界のこと。
それで、今日のボストン美術館展で仏像展示があると分かって、順次観ていくうちに、実際に仏像の手の優位はどうなってるのかと、そのことに集中して見ようと思ったので、弥勒菩薩立像の手のあり方とファン・カレーニョの描いたprader-willi症候群の娘さんの肖像画のそれとが重なり、強い印象が残りました。私は無信仰ですが、この子たちの救済を心の中で静かに念じました。
第二章「海を渡った二大絵巻」
吉備大臣入唐絵巻(平安時代12世紀後半)は展示解説が良く、唐人の策略をあの手この手で潜り抜け、最後の囲碁勝負で碁石飲み込み、怪しまれ下剤飲まされて調べられのピンチに超能力で姿消しの場面など、ユーモア溢れる内容が伝わってきます。
アニメーションの原型みたいな繰り返し表現で、絵巻物特有のアイソメトリックパースのようなバイアスの掛かった描写で全体が統一されている。唐人の策略で案内された幽鬼が住むという楼閣の奇妙な梯子のような階段や、やたらに多い細い柱列のリズムやら、屋根の雲母表現によるトリミングの感じが場面場面で少しずつ異なっているし、形そのものがとても奇妙で面白い。対面の場面の槍のリズミカルな配列も楽しい。
絵そのものは結構ラフな感じで、下書き線みたいなのが、残ってたり、交差してるところも重なったまま残されてたりと、失敗のような部分も含めてそのまま表現としている様は、現代アートの間合いにも近く、時空を超えて不思議な印象がしました。
(混んでいて皆さん順番に並び移動しながら観ているのですが、案内の方が空いてるとこからご自由にと繰り返しアナウンスしていて、ややこしく、そのうち割り込んだ人と観てたオッサンとが、オマエ押したろなんやのと口げんか始め、まるで絵巻物の中の珍騒動まんまで笑ってしまった)
平治物語絵巻 三条殿夜討巻(鎌倉時代 13世紀後半)は、夜討ちの大混乱、火災炎上、虐殺の場面を丁寧に描写していて、吉備大臣入唐絵巻の割と軽い密度に較べると、インパクトありました。火炎表現がメインの場面で人物と重なるところで、軽い線描のみとなっていて、そこだけどうも未熟な表現で、いかに表現するか悩んだ跡が見えて面白かったですね。ここもどちらかと言えば失敗したような表現をそのまま残してる感があり、興味深い。
第三章「静寂と輝き 中世水墨画と初期狩野派
近世に近づいてくると、描写も絵巻物的な、さすがに失敗的な要素は残さないというのか、優雅な表現になってきます。表現はシンボリックな印象が強く、ランドスケープの描写も、細部はリアルですが、全体の姿は現実には存在しない架空の空想上のもの。空想を破る中間的な存在になり得るような、土木的な護岸技術の姿が描かれたものが無いかと探したのですが、狩野松栄の京名所図等扇面の、川岸に沿う蛇カゴ表現1点のみでした。
松に麝香猫図屏風(伝狩野雅楽助筆)はアーチャン猫好きなので、大喜びでした。鳥の描写も美しい。六面屏風は、折っていくと中央が谷となり焦点産むので観易いですね。
第四章「華ひらく近世絵画」
1点1点が圧巻。この辺りになってくると、観客も集中力なくなってバラけてくるのでとても観易い。
四季花鳥図屏風(狩野永納筆江戸時代17世紀後半)の花鳥の描写は完璧ですね。時代も先に思っていた、スペインの宮廷画家ファン・カレーニョの活躍した時代と同じようで、当時、世界的な天候異常(太陽活動が低下し、人類有史上最も寒かった時期=マウンダー小氷期)であったらしく、きらびやかな絵画表現がその対極として生まれてきたのか(現実の諸相を描いていない)、歴史的なことは分かりませんが、強い表現。
鸚鵡図(伊藤若冲筆 江戸時代18世紀後半)は小品ですが、白く輝いていました。鸚鵡が足かけている西洋風の飾りは何だろう。背景の若冲独特のにぶい自然な色調と対照的でした。隣の同じく若冲十六羅漢図の水墨表現とは同じ人物の作品とは思えないギャップ。静止した像から流動的な描写へのトライであろうか、実験的な精神がみなぎっている。しかし上辺のブドウ蔓のような葉のような表現は若冲の観察眼の鋭さが隠せない。
想像ですが、おそらく光学的な技術の進歩とこれら煌びやかな表現とはリンクしているに違いないと思う。細かな細部への視線が生物観察のレベルとなっている。
松島図屏風(尾形光琳筆 江戸時代18世紀前半)は、現代アートかと思うくらい新鮮でした。リアルな描写を離れ、様式的な表現に徹しています。岩の中にあるボカシた表現の部分が、不思議な無意識的なレベルを感じさせました。失敗をそのまま許容して残してあった平安時代の吉備絵巻の下書き線の自由な迷走が違うかたちで再生してきたようで、活き活きとしている。無意識レベルでのうごめきが次代の表現につながっているような。
第5章「奇才 曽我蕭白
曽我蕭白のことまったく知りませんでしたが、とても良かったですね。第4章での、尾形光琳伊藤若冲たちの、自由な表現と形式的な表現との葛藤みたいなものに、人間的な感情や笑いのちからでもって、突破しようと試みている印象。
ランドスケープの中にも顔のような眼のような焦点のある表現を忍ばせていて、自然の姿のなかに、人間的なものの現われを示しているし、ラフな筆跡のドライブ感の中に、無意識レベルのうごめきを感じますね。
圧巻の雲龍図も、想像上の龍も極端に大きく描かれたものを、近くで見るとおかしなところが一杯あって、笑えてくるような、きっと面白い人だったんだろうなと空想。