「ボーダーレスのゆくえ」

昨年もなんばパークスのこの会場で山中さんキュレーターによる「リアリティとの戯れ‐Figurative Paintings‐」展があり、様々な問い掛けを感じましたし、今回もとても楽しみにしていきました。
昨年の感想として、心の安定を失ったような、観察者中心座標系が揺らいでいるような絵画表現のものが多かったこともあり、アールブリュットを偽装する人々(もちろん私的には否定的な意味では無く)と書き込んでいました。
今年の作品群はかなりそれとは異なった様相のものでした。

「ボーダーレスのゆくえ」
なんばパークス
【3/21(木)〜31(日)】
http://thethree.net/news/219

昨年奈良の大和郡山のHANARART2012 旧川本邸で拝見した岡本啓さん以外、参加されているのは、まったく知らない作家さんばかりでした。
昨年のリアリティとの戯れ」展の時は田岡和也さんのショッピングバッグ作りのワークショップがあり、妻子が参加して楽しい体験をしました。
私は田岡さんと対話することで作品世界の意味の理解も深まりましたし、やはり知らない作家さんの作品を観る時は、直接対話ができて、作品世界の理解の手掛かりが有ると、時には想像の妨げになる場合もありますが、想像の為の補助線は多いほうが良いと思うし、良かったと思っています。
今回も、山本聖子さんの作品のコーナーで作品を協働して作るワークショップがあり、紙を細かく切る事への強いこだわり行動のあるアーチャンは、昨年のバッグ作り以上に喜んで参加していました。


山本聖子さんは会場には居られなかったのですが、後日、住之江区北加賀屋名村造船所跡でのIRONMAN展を見た後に、メガアート倉庫に廻って個展を拝見しお会いして少し作品についてお話も伺えたので、作品世界に対する理解が深まりました。
山本さんの作品含めて、共通して感じたのは、オリジナルなものとは何なのかという基本的な問いのようなもの。
辞書や地図の中の文字から特定の綴りを消去したり切り抜いて行き、それをそのまま床に平置きにしたり、瓶のなかに断片を詰めたりしている森村誠さん。
スーツに自作の小さな壷や銀杏の葉をトレースしたゴムなどを貼り付けて彷徨う山村幸則さん。

他の作品も含めて、整然と並べられ、観客は淡々とその周囲を巡るような。そこには前回のリアリティ展で感じたような、観察者中心座標系の混乱のような様相はなく、その佇まいがアーティストの作品同士が協調してリズムを発しているような、整然としている(し過ぎているとも感じる程の)印象がとても強いですね。

巡りながら、以前、国立国際美術館で観た、「杉本博司 歴史の歴史展」を思い出しました。美術館の展覧会であまり感じたことのないような強い違和感のようなもの。それとどこか形式的な部分が似ているのだけれど、でもやはり違うような。
その時こんな感想を書いている。

杉本博司 歴史の歴史展」
http://d.hatena.ne.jp/prader-willi/20090517/art

様々な歴史的遺産の絵画や書などを掛け軸にすることは、見慣れたものですが、でもこうして、作家の強い意志の元に置いて表装されると、何故か違和感のようなものを感じてしまうのも、とても不思議に思いました。修復では無く新たな作品として文脈を転換されている事への違和感なのかよく分かりませんが。
仏像なども全て四周から見ることの出来る展示となっていて、本来宗教的空間の中では対峙して、バイアスの掛かった関係の中で見るべきものが、そのような関係性を解体されているところ、例えば最近の阿修羅像の展覧会での展示の有り様にも共通した感覚があると思いますが(興福寺の展示室では、対峙する関係性の展示で、背面は見えません)そこにある眼差しは、大袈裟に言えば、ある意味においてあらゆるカテゴリーの解体に繋がる意識とも取り得る関わり方なのかと感じますね。そのことと、自己の作品と歴史的遺産や様式とのつながりの意識や、自己観の解体とは、どこか違うようにも思います。

おそらくそこで感じたのは、自分が関った形式や様式のカテゴリーの分析的な客観的な解体作業と、自己観の主観的な解体作業とは大きく違うだろうし、作品として提示されたものが、分析的な客観的な解体作業メインであると、人はクリエイティブな感情を抱き難いと思う。
今回の展覧会はどうなんだろうと思う。
かなりギリギリのところで、分析的な客観的な解体作業メインな印象があるし、整然とし過ぎていると感じたところでもあると思う。
メガアート倉庫に家族で伺った時、山本聖子さんから、逆になんばパークスのワークショップに参加した人に話を聞けるのは初めてだしと、いろいろ聞いてこられたのと、かなり今回迷って悩んだ状態から、あのような建築の間取りをハサミで切り刻む方法を見出して解放されたような気持ちになれた事、それをワークショップで試そうとした思いなどお話いただいた。
作品の整然としたク−ルな印象からは予想外なお話と感じたし、主観的な感情的なモードを強く持ち込んだ作業ということも理解できました。
他の作品も思い返してみると、その点は共通しているのかも知れない。
誰かが作り出した事物に関り変形を企てつつ、アーティスト固有のバイアスの掛かった視線は存在している筈だけれど、どこか希薄で、蒸発してしまったかのようなそんなイメージが残る。しかしそれは未来に向けて必要な資質と感じる。そう信じたい。