前谷康太郎展 parallel

妻の芸大友人の田中マリコさん主宰の銅版画スクール:パルケ展を観た後、帰路、なんばで降りてCASさんへ。
少し前に此花区の梅香堂さんで拝見した前谷康太郎さんの映像作品。

前谷康太郎展 parallel
http://cas.or.jp/2012/MAETANI/
CASより引用

展示室の左右の壁にスクリーンが吊るされて、そこにオレンジ色の四角い光の面がゆっくりと明滅しています。左右の光の明滅のリズムは、ずれていますが、明滅のリズム自体はどちらも同じような、ゆっくりとした感じでした。向かい合うスクリーンの部屋の中央に白いベンチが設えられていて、そこに座って見ました。妻子は片方のスクリーンの方だけ見つめていますが、僕は真中に座って何とか同時に両方の明滅を見ようと、視点を宙に浮かせて、ぼんやりと光の明滅を体で感じていました。
以前、梅香堂さんで拝見した時に感じた、EMDR的な視覚を左右に動かす事によるセラピー的な効果の意識が、今回はより強くシンプルに感じました。
前谷さんは不在でしたので、どのような意図で作られたのかはお聞きできませんでしたが、案内状にキュレーターの方が書かれているような「最近の若い作家には珍しく、情緒を排した抽象性の高い作品」というよりも、むしろピュアな形での情緒が強く感じられました。

前谷さんから、blogの感想読まれて、ご返事のメールいただきました。そこに作品についての説明コメントがありましたので、一部転載し、そこから感じた内容を追記します(2012年3月23日)

前谷さんのコメントの一部

今回の新作は、「ある地点と、地球の反対側の日没と日の出の光の変化を一つの空間で再現する」というコンセプトです。向かい合う壁に投影しているので、二つを同時に見られるよう、ベンチとは別に椅子を置いていたのですが、なかなか気づいてもらえないようで(略)

説明コメントからさらに感じたこと

感想の中で、キュレーターさんのコメントの「最近の若い作家には珍しく、情緒を排した抽象性の高い作品」というよりも、むしろピュアな形での情緒が強く感じられました、と書き込みましたが、これはキュレーターさんのお考えに対する違和感では無くて、おそらくCASさんで、前週に拝見した笹岡さんの作品から受けたイメージが影響して、そう書き込んだのだと思います。
メールで伝えていただいた、日没と日の入りのイメージに、私が情緒的なものを感じたのだろうと思います。
笹岡さんの作品に対しては、私が建築デザインの仕事をしているからかもしれませんが、とてもよく分るというか、感じるところがあります。
日常の都市の光景のなかに居ると、そこに存在するあらゆるものが誰かがデザインし誰かが制作した人工物に満ちていることに、気付かなくて良いように出来ている。
それが気付くようなものに満ちていると、むしろ息苦しいような世界になってしまう。
もちろん何の意図も無い訳ではなくて、背景に退いて、いかにグランド化するかに集中しているような。でも時としてグランドの中から切り出されてフィギュアとして感じる部分も大事なとてもデリケートな世界かもしれません