中崎透 「エピソード:鼻歌まじりの引越の時間はいつかは終わる。だから僕はなるべく回り道をする」

北加賀屋周辺の大阪カンヴァスを観た後に、西九条に出て梅香堂さんへ行きました。

中崎透 「エピソード:鼻歌まじりの引越の時間はいつかは終わる。だから僕はなるべく回り道をする」
梅香堂
http://www.baikado.org/docs/home.html

梅香堂さんで拝見した前2回の展覧会(ボン靖二「あとでみる」展秋山ブク 「コンポジション 6番:梅香堂の備品による」)が廃棄物や梅香堂の日用品を組み上げて、なおかつ2階と1階とで床の吹抜け介して構成されているところ等、似ているなと感じる点と、しかしよく見ると、それぞれ微妙に異なっているし、有用なものと廃棄物との違いであったり、所有することの意味であったりと、シリーズのように続く展覧会自体がユニークだし、いろいろ感じるところがありました。
梅香堂の川側のスペースに組上げられた小屋状のものが撮影の後、解体されて、2階の床から1階へ一つずつ捨てられていき、その捨てる場面なども
撮影し、会場でたくさんのモニターから映し出されています。
最近よく見ることのある、廃棄物アートの場合、そのものの来歴が、仮留めのようにして均一に与えられる事によって、その仮留めのような固定のあり方をむしろ前景化することで、物質の根源へ遡るような思考回路を停止し、よって精神の安定化に向かわせるような、そんな印象が僕の中にあります。今日の中崎透さんの作品も同様の試みなのか、見ていたのですが、でも物質の根源へ遡るような思考回路を停止する行為、それ自体をメタ化して、映像化してという点は、とても興味深いと感じました。 
2階の床の穴から廃棄物を投下することによって、一瞬にして、均一な価値をコーティングされていく。しかし、1点ずつ投下されることによって、所有する時間は少しずつ異なっている。そのことを映像通じてメタ化しようと試みているかのようだ。廃棄物アートの場合、その時間の感覚も均一な同時性を帯びているように感じるし、多くは受入れ易い様相やシンボリックなイメージをまとわせているけれど、中崎さんの作品では、それらが集積されても、何らかの像に結び付くところが無い。
世界に対する積極的な無関心さと、アートの手法に対する強いこだわりが同居しているような不思議なイメージを感じました。