村上三郎 展 ー70年代を中心にー

南森町駅で降りてアートコートギャラリーへ。

村上三郎 展 ー70年代を中心にー
http://www.artcourtgallery.com/images/exhibition/2011/exhibition_2011_1112_murakami.html
アートコートギャラリーより引用

具体美術協会のアートは、少し前の世代のものだし、知っている情報は主に、美術雑誌やTV番組で観た白髪一雄さんのロープでぶら下がり足で絵具を攪拌する絵画や、メンバーだった堀尾貞治さんの現在も続けておられる制作活動など、断片的なものです。
今日は、村上三郎さんの紙破りパフォーマンスのビデオや当時の貴重な記録から、亡くなられるまでの継続されていた制作の軌跡を観ることができ、良い経験となりました。
家族と一緒に観て廻ったし、午後の予定の都合でビデオ類は断片的にしか観ることができなかったので、会期中に再度訪問し、時間を掛けて見つめたいなと思います。
最初に、具体美術協会の事に興味を持ったのは、随分前に、知人の紹介で一緒に信濃橋画廊で展覧会をしたO君(O君はアート活動休止してるし、ここでは匿名に)が、吉原治良賞を受賞されてたし、その時の二人展も他会場も吉原治郎賞関連の作家さんだったところからでした。
僕の具体美術に対する理解は「非決定論的な人間存在をメタ認知する装置としての無意識的な機械的決定論的方法」というまわりくどいもの。
そして、このような方法論に人が一旦魅了されると、なかなか抜け出せない、麻薬のような物ではないか?という直観的な理解が僕の中にあり、でも一度はそのような世界について誰しもが考えざるを得ないような、大事なものとも思っています。この事については、時間を掛けてゆっくりと考えていきたいし、出来るだけ資料など読んで、また残された作品や記録も丹念に見ていきたいと思っています。
その意味で、今回の展覧会の丁寧な構成は僕にとって、またとない機会でした。企画をされたギャラリーの皆さんに感謝。

O君との二人展の記録、ここに再録。

O君との二人展  1987.06.22〜27 信濃橋画廊
二人展を終えて得られた様々なimageについて

「作品はどの時点で完成とするのか? 何をもって完成とするのか?」

地階で同時期に行われていた『吉原治良賞の6人展』をきっかけとして、「具体」(具体美術協会)というグル−プの活動について少し思った事があります。具体についての知識はわずかであり、それは一つだけ数年前にグル−プのメンバ−の白髪一夫という方の展覧会のTVでの紹介の中で白髪氏の制作風景を見た事だけです。タ−ザンのようにロ−プからぶら下がる作者は絵の具を自分の素足でロ−プの振動によって攪拌を始める……・

どの時点で止めるのだろうかという素朴な興味に対してTVは最後まで映しだした。作者は振動を止め、画面から向かって左隅のキャンバスに足で踏みつけるように何かを描かれた。作者は機械的な振動だけでは絵画としての作品はもう作り得ないと主張するかのように。それらはTVでの制作風景として分かる事であり、停止した結果として残された作品のみからは分からない内容ではある。それを見た印象としては、「具体」の人々の初期のimageの中には偶然性を重視する精神よりもむしろ漠然とした「機械」的な現象を重視する精神、人間の感性を超えたものを生み出すのではないかと期待させる「機械」的な現象の、過去の作品群に対しての新鮮な驚きのようなものがあり、人間の感覚的なヴィジョンを相対化する装置として「機械」を概念化していたのではないだろうか? そこには「機械」との対話は無い。現代の身近な「機械」に対するimageは、人間の感覚を相対化するような装置としてよりはむしろ人間に同化し、順化するような、人間の心の働きとの類似性をこそ感ずる。人間の精神の自由(相対性)を立証するものとしての「機械」のimageから精神の自由を実現していくための「機械」のimageへの移行があると思う。日常的に「機械」との対話があり、それは現代人にとって不可避であり、かつ偶然性(最も人間らしいもの)に対する新たな視線を生む機会でもあると思う。

偶然性の尊重と「機械」との対話を通じて作品の完成というテ−マについて考えていけばいくほど停止する、完成する行為が先送りされていく不安はあります。

O君の友人の若い教師の方との対話から少し、その問題について考えていく道が見えたような気がします。

Q:若い教師の方 ――― 自分はさまざまな素材や手法を使って作品を作っていますが、あなたはは何故銅板画を続けているのですか?

A:―― 銅板画(版画一般の意と思って下さい)は作品に対してク−ルになれる。絵画の場合アナロ−グ的に最初から最後まで作品と付き合う事となる。銅板画の場合、製版はアナロ−グ的であるけれども刷り上がる時は実にデジタル的である(アナロ−グ的に変化していくもののある瞬間の状態を見せてくれるという意味においてであって記号表現としての意味ではない)製版の作業と作品と異なったものとして取り組めるところが好きだから(ずっと続けているのです)

二人展が終わった後でこの対話を思い出してみて、版画の特性として、デジタル性+アナロ−グ性という性質を再認識する事が出来た。さらに付け加えるならば物質性を持っている事、これは重要である。
様々なCGやパソコン等は(デジタル+アナロ−グ)という2要素は備えているが物質性は持っていない。(中にはCG上で描いた立体を工作機械と連動し三次元的に立体として作り出す作家もいるが、過去の機械との結合という感じを受けるのみであり、本質的に新しいものではないと思う)
CGやパソコンはデジタル入力であるからimageは可逆的である。版画の場合は不可逆的であり、製版が進めば原imageは保持しているが、元に帰る事は出来ない。                     1987.07.11