平松伸之展

本町のシェ・ドゥーヴルを出て、なんばのcasさんへ。
平松伸之展を見ました。

平松伸之展
http://cas.or.jp/2011/HIRAMATSU/index.html
casより引用

前回のHow do you make art history our history?展で、教科書に用いられているアート作品の画像をコラージュした作品を拝見していましたが、過去の作品等あまり拝見していなかったので、自作自演のミュージックビデオも、ソファに座って、見ていましたが、エンドロールのところ、全ての作品の各分担に自身の名前を繰り返し繰り返し記述されていて、教科書のコラージュ同様に、几帳面な方だと。
何となくカラオケ映像のようなロードムービーのような作りのビデオ見ながら、漠然と、確かに街の中にあるほぼ全ての人工物は誰かがデザインし、誰かが製造し、そこに設置していったものであるし、アートに較べると、いわゆる著作権のしばりも緩いし、それゆえの自由さ、とりとめの無さがあると。
それらを映像としてキャッチした瞬間に映像作品としての枠ができてしまい、著作権が生じて固定化されていくのだろうか。
僕がピュアアートの制作から離れて、ランドスケープや建築の仕事に傾斜していったのも、ピュアアート的な狭い意味での個人の領域へのしばりから、より多くの人にイメージの利用が伝承される自由な世界(これも少しおかしいが)へと目指したのかもしれないと。
少し前に、アールブリュットの世界で活動されている、アトリエインカーブの今中さんのお話を聞きに行ったのだけれど、そこで言われていた「デザインには差別は無く、アートには差別がある」という重い言葉が、まだ充分に消化できなくて、頭の中でぐるぐる回っている。それら区分の社会的な意味を無効にすることがアートのちからなのに、現在はそれが転倒して、アートがむしろ区分を強化してしまっているのではないかと空想する。