大野浩志展「在り方・現れ方」

なんばへ出て、CASさんへ。会場に大野さんも居られて、作品について詳しくお話いただきました。ホームページの画像から、家具廃材を黒く塗りつぶしたオブジェを作り続けたネヴェルソンのような作品を立体化した感じを連想していたのですが、まったく違うイメージでした。
同じ大きさの木の板の片面を焼いて、同時に反対側に濃いブルー(インディゴブルー)を塗る。同じ行為を何回か繰り返すので、焼く方は厚みが減っていき、塗る方は厚みが増していく。最終的には木の部分が無くなり、絵具だけになるような(現実には絵具の部分も焼けてしまうので、概念的な話として)
そのような板のピースを一ヶ月に一枚ずつ作り、それを渦巻き状に並べていく。渦巻きはエンドレスに広がっていくイメージで、作品は無限に成長を続けていくらしい。そのように平面的に拡張していく部分と同時に、同じ数だけ、垂直にこちらは全面を焼いた板を積み上げている。過去の他の会場での展示では、天井に到達するまで限界まで積み上げ、いつ崩落するか分からないような不安定な状態に積み上げたらしく、今回はでも安全面故か、周囲に寄せるように添えている。その塔のような表現の基段中央に一つだけ焼かないで、白くペイントした板が置かれていて、それは何も無い原初を示すものとしてのイメージであるとの事。
平面に渦巻き状に広がっていく板のピースは、小口は加工されていないので、生の板の状態が見えていて、木としての存在や意味は前後の焼却と塗装によって強化されている。中央の塔の板は完全に焼かれているか、白く塗装されることによって、生きた木のイメージは消されて、新たな意味が付与されている。
これらは廃棄物に手を加えていったものではなく、ごくありふれたツーバイフォー用の板材であり、建築のシステムの中に組み込まれた規格サイズの有用物である。
最近の廃棄物を使った現代アートの傾向として、廃棄物の場所や由来をもって、一種のイメージロンダリングのような、ものの依って来た由来への根源的な問いを無効化するような傾向を感じる時がある。そこでは、環境への提言としての廃棄物を扱う意識よりも、むしろ、そのような無効化自体をうまく取り込んでいるという印象の方が、個人的には強く感じる。根源的な問い掛けの息苦しさは、そこでリセットされるような仕掛けがある。廃棄物というカテゴリーを持ち込むことで、そのものの持つ時間は、ある意味で死んで固定化されている。
今日拝見した作品のような、ごくありふれた素材に手を加える事で、今そこで廃棄物を産み出していることと、新しいイメージが産み出されていることを観る事は、意識を無限の深みへ不安定な世界へと引きずり込む働きを感じる。そのベクトル感のなかから信念は生じてくるのであろう。

大野浩志展「在り方・現れ方」
http://cas.or.jp/index.shtml
CASより引用