カエルニュース  373号 「人の一生は夢と思い出の中に」拝読

阿部知子衆議院議員メールマガジンで、小児科医を始められた頃に診られたプラダーウィリー症候群の患者さんの事書いておられます。残念ながらその患者さんは最近亡くなられたらしく、思い出を綴っておられます。御冥福を御祈り致します。
定期的に「プラダーウィリー症候群」で情報検索しているのですが、いろいろな方にこうして、取り上げていただき感謝です。下記のメール送付して、当方のblog日記への紹介も許諾いただきました。特定疾患の認定の制度設計のところ、治療法開発への公的な支援などよろしく御願い致します。

あべともこ先生
カエルニュース  373号 「人の一生は夢と思い出の中に」拝読しました。

はじめまして、当方の娘(10歳)がプラダーウィリー症候群で、定期的に情報検索しているうちに、先生のお話を拝読致しました。亡くなられた方の御冥福を御祈り致します。
また、先生が障害者福祉に力を入れておられる理由もよく分かりました。
プラダーウィリー症候群は患者数も少なく、故に現在でも、まだまだ社会的な認知もされていませんので、こうして取り上げていただいて感謝です。
御存知と思いますが、現在、国の研究として難治性疾患克服研究事業に採択されていますが、まだ実態調査程度のようで、海外の既に過食症等の治験をはじめている状況に較べて、患者家族としては情けない状況と感じています。どうか研究支援が進みますよう、御支援よろしく御願い致します。
当方は、患者家族会、協会等には所属しておりませんが、個人としてblog日記にて、この情報の少ない疾患の解明に少しでも貢献できないかと日々記述しております。よろしければ、先生のカエルニュースのところ、紹介させてください。
当方のblog日記のアドレスは下記です、よろしければ御覧下さい。
http://d.hatena.ne.jp/prader-willi/

海外の治験の、その基礎研究は多くが日本の研究者さんの発見によるものですし、余計に歯がゆい思いを感じています。

過食の原因のひとつとされるグレリン血中濃度プラダーウィリー症候群の場合、異常に多くなっています。このグレリンの発見者さんも日本人研究者(寒川&児島先生)さんです。当方の娘は血液検体として、児島先生の御研究に参加しましたが、現在のところ研究は進展していません。

当方のblogに児島先生からコメント投稿いただきましたので、御覧下さい。
http://d.hatena.ne.jp/prader-willi/10000101

海外では、このグレリン濃度を下げる治験がなされています。
http://www.fpwr.org/grant/2009/exenatide-potential-treatment-hyperphagia-and-obesity-persons-prader-willi-syndrome

また、最近、自閉症の患者さんへの治験で社会行動面に著効があったとされるオキシトシンについても、プラダーウィリー症候群の場合、視床下部内でオキシトシンニューロンが半減しているとされ、海外では点鼻薬による治験が行なわれています。
http://www.fpwr.org/grant/2009/trial-oxytocin-improve-behavior-and-cognition-prader-willi-syndrome

プラダーウィリーで、視床下部オキシトシンニューロンが半減している研究に結びつく、necdin遺伝子(プラダーウィリーでは働いていない)を発見された大阪大学の吉川先生とも、当方が大阪市内在住ということもあり、交流させていただいて、コメント投稿していただきました。
http://d.hatena.ne.jp/prader-willi/10000201

先に述べました、難治性疾患克服研究事業に関連して、特定疾患の懇談会において、専門家からはプラダーウィリーに関して疑問のある意見が出されていて、それに対しての他の委員から反論も無く、そのまま記録されていて、この懇談会システム自体にも、当方は疑問を感じていますし、制度設計自体を考え直していただきたいと希望します。

関連情報を当方のblogにまとめていますので、御覧下さい。
http://d.hatena.ne.jp/prader-willi/20090916/memo
http://d.hatena.ne.jp/prader-willi/20070619/memo

では、今後共よろしく御願い致します。

大阪市在住 てつろう

カエルニュース  373号
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社民党衆議院議員・小児科医・阿部知子メールマガジン
\^o^/「カエルニュース」 373号 2010/5/7 \^o^/
http://www.abetomoko.jp/

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★☆人の一生は夢と思い出の中に☆★

 5月3日午前中、山梨の甲府で開かれた定例の憲法記念日での講
演会を終えて、大急ぎで藤沢に帰り、夜にドイツに出発する準備
に追われていた私に携帯電話が入った。千恵ちゃんが自宅で2分
ほど前に亡くなったと。31歳であった。

 連休の渋滞の中、これから首都圏を抜けて成田まで向わねばな
らない日程を思うと、登戸駅近くの彼女の自宅に立ち寄る時間的
余裕はなく、代わりに秘書が駆けつけてくれることになった。

 千恵ちゃんとはちょうど31年前、私がまだ若い小児科医(当時
の私も奇しくも31歳だった)として国家公務員共済の登戸病院に
勤めていたころに出会った患者さんで、抜けるような白い肌をし
た、自らお乳も吸うことができないほど筋肉の緊張の弱い新生児
だった。だれの目から見ても弱々しく、しかしこれまで知られて
いるダウン症や先天性代謝異常等のチェックでは異常がなく、何
らかの病気であろうことは想像がついても何の病気なのか、どん
な病気なのか熟練した小児科部長や小児神経を専門とする高名な
先生にも皆目わからなかった。

 とにかくダラッと寝ているばかり、母乳を含むこともできない
ばかりか哺乳瓶で流し込んでも口の角から漏れ出るだけ。助産
さんがだましだましお乳を与え、まだ若いお母さんはただ放心し
たように授乳室でその赤ちゃんを抱いて、他のお母さん方が我が
子にお乳を与えるのを呆然と眺めていた。

 それが私と千恵ちゃん、そしてお母さんの出会いであった。私
は医師になって5年目、東大小児科医局での1年間の研修後長女を
出産し産後の肥立ちが悪く1年半以上休職、やっとの思いではじめ
ての職場である登戸病院に就職し、前年には次女も生まれて少し
ずつ小児科医の仕事がおもしろくなってきた矢先であった。

 当時の登戸病院は地域密着の庶民的病院で分娩費も安く、地域の
お産の大半をとりあげており、産科の先生方や助産師の実力も高
かった。いろんな赤ちゃんに出会えて、とても勉強になったし、夜
中の分娩での新生児の急変や入院中の患者さんの処置のために呼び
出され、背中に我が子をおぶって病棟に行くこともあったが、看護
師さん達も皆一生懸命で、私にとっては小児科医人生の最も基礎を
なす技量を身につけさせてもらった時期であり、場であった。

 そんな中だから、よくわからない難しい病気?は自分で手当たり
次第に文献や教科書を読み、大学にも相談し、何とか対症療法でも
よいから、その子の成長の手助けをしたいと必死に格闘していた。

 彼女の病名が「プラダーウィリー症候群」らしいとわかったのは
もう3歳も過ぎていたかと思う。赤ちゃんのころは飲めない・動か
ない・泣かないなど生命力が弱く、とにかくどうやって大きくしよ
うかお母さんと四苦八苦したけれど、3歳近くに歩き出したころには
少しずつ太ってきた。アーモンド型の可愛らしい目、相変わらずの
白い肌、実際には見たことがないけれど英文の教科書に書かれてい
る「プラダーウィリー症候群」の特徴と千恵ちゃんには重なり合う
ものが多かった。そしてそこには「食欲の異常を伴い、著しい肥満
になる」との記載とともに糖尿病となることが致命的と書かれてい
た。

 それまで太らせることを考えていた千恵ちゃんに食餌制限と努め
て運動をさせることという宿題を出してお母さんと二人三脚、とに
かく千恵ちゃんを育てたい一心であった。千恵ちゃんの下に次の赤
ちゃんの生まれたお母さんは乳児院に働く保母さんであったが、仕
事を続け2人の子どもを育て、そして主治医である未熟な私を信じ
て、とにかく一緒に取り組んでくれた。

 千恵ちゃんは成長し、私の次の職場であった国立小児病院でその
道の専門の先生からもプラダーウィリー症候群という診断を確定し
てもらって、さらに「太らせない」ことに専念したが、その食欲は
抑えがたく、お母さんの苦労は人並みのものではなかった。止まる
ことのない食欲故に食べ物を取ったり、逃避といわれる症状が出た
り、成長してその行動半径が広がれば広がるほど、親としては気の
休まることがなかったと思う。

 でも私にとっては毎年毎年彼女やその他の患者さん、そのご家族
を連れて夏は海へ、冬は山へスキーへと実にあちこちに出かけ、30
年近く楽しい思い出の数々、夢のような日々を一緒にすることがで
きた同志!千恵ちゃんであった。彼女らと一緒にどこかに行こうと
思うだけで、次の年も次の年も頑張れた。

 彼女の体重が重くなり、自力の歩行が困難になってからも沖縄に
も北海道の富良野の森にも出かけた。糖尿病は悪化して血糖値も600
近くになっていた。私の名付ける「旅の一座」は障害・病気のある
子とその親御さんの一行で、珍道中ではあるけれど、参加者は皆、
年に1、2回のこの旅を楽しみに毎日毎日を生きてくれる。私もまた
然り。30周年は海外へと夢をふくらませていたのに。

 千恵ちゃん、本当にありがとう。私に医者であることを教えてく
れて。楽しかったね、思い出は消えないよ。あの旅の一座から亡く
なって先に天国に行った患者さんと一緒に向こうで待っててね。お
母さんも先生もきっと行くからね。安らかなお顔で亡くなっていっ
たという彼女。会えなかったけど、その分先生もしっかり仕事する
から。

    阿部知子

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