Katrin Paul solo show「融解:結晶」

remoさんでの展示を見てから、すぐ近くにある名村造船所跡地のクリエイティブセンター大阪へ行きました。こちらもどこが展示場か分からなくて、造船場の奥へ歩いていったのですが、スタッフの方が、そこは立ち入り禁止区域ですよと案内してくださいました。
日本在住のドイツ人写真家のKatrin Paulさんは知らないアーティストさんだったのですが、偶然、昨年我家が参加したホネホネアートのワークショップ
prader-willi.hatenablog.com

にKatrin Paulさんも参加されていた]そうで、我家を見て思い出されて、声を掛けてくださり、作品の説明もしていただいて、それから展示を見た後で、ホールのカフェコーナーで一緒にお茶を飲みました。楽しい時間感謝です。(以下画像転載許諾済み)

写真家のKatrin Paulさんですが、今日の展示作品は、様々な物質と紙と水とが、展覧会のタイトルにあるように、「融解:結晶」していくことで、白く輝いたり、影が生じたりするところ、絵画を描くという事ではなく、写真と同様の原理によって作られたらしい。
多様な作品群の中、印象的だったのが、毎日の制作作業の終わりに、小さな四角い画用紙を歯で噛んで、歯形をつけていくことで、紙をスクラッチしていき、その無数の歯形の痕跡のような紙を壁一面に貼り付けている作品。

ちょうど、先週の金曜日に知人の小谷廣代さんのシェドゥーブルで見た、陶芸家の喜多村朋太さんの個展「セルクルとカレ」展で、四角い陶芸プレートが連結して並べられていて、そのイメージが無限大につながって拡がっていく様を思い描いたところだったので、目の前にそれを具現化した作品にめぐり合えているような気がしました。
目の前のひとつの小さなピースは人に対して親和的で、分かり易くクリアーに見えていますが、それらが無数に連結されて、ランドスケープのようなサイズになっていくと、その端部は感覚的に捉える事ができなくなり、関係が曖昧なものとなっていく。絵画の特権はあらゆる場所に焦点をクリアーに、オールオーバーな画面を作る事ができるところにあると感じますが、それがスケールの限界を超える時、焦点は曖昧な物としてしか認知できなくなり、捉える事が難しくなってしまう。目の前のクリアーな歪みのない事物と、離れた場所の事物の曖昧さとが同時になめらかにつながりつつ、単位で分割されている。親和的でありかつ流動的なイメージ。
その作品以外にも、塩水で描かれて、乾燥とともに塩の結晶がキラキラと輝く作品も興味深いものでした。キラキラする粒子へと近づいていく時に、目で見ているというより、感覚全てで捉えているような、アクセサリー的な装飾性と、ここでもまた水のもつ流動性、とりとめなく離れていく感が混じり合い、つながっている。

Katrin Paul solo show「融解:結晶」
http://www.artcomplex.net/ccosche/?itemid=5049
クリエイティブセンター大阪より引用

Katrin Paul
http://katrinpaul.com/