藤浩志個展「Toys Saurus」

こころの未来研究センターでの療育の後、百万遍からバスに乗り、熊野神社前で降りてMORI YU GALLERY KYOTOに行きました。水都大阪2009で、かえる工房とかえっこ屋主宰された、藤浩志さんの個展拝見。

藤浩志個展「Toys Saurus」
09/10/17 [ sat. ]〜09/11/21 [ sat. ]
http://www.moriyu-gallery.com/v3/home.htm

水都大阪2009の水辺の文化座で会期中レギュラーで展示されていたアーティストさん達の作品は、それまでの活動内容やポリシーによって選ばれているということもあるのでしょうけれど、そこに共通した、単純なエコという括り方にははまらないような、再生や循環のイメージを感じました。
今年の5月にこれも京都で拝見した、淀川テクニックさんの『明るい無常観-LIGHT TRANSIENCE-』展の時に少し感想を書いたのですが、そのメモのことを思い出しました。blogから、

僕も、アートに限らないけれど、そのものの由来、どちらかと言えばどうやってこの場にたどり着いたのか、知りたいというか、仮留めで良いから一旦固定しておきたいという気持ちが働きますね。ピュアアートに最初に出会った、とても幸運な出会いと思いますが、僕の心の師である福岡道雄さんの展覧会で、僕は今から思えば赤面ものですが、何も知らない物の強みで、「この材料は何ですか?」とか「それはどこで手に入れたのですか?」「それはどう加工するのですか?」など、延々とお聞きしたように思う。その物質がよって来る由来を仮留めで良いから固定したいという衝動みたいなもの。
淀川テクニックさんの作品を観ていても、同じような感覚を感じるところがありますね。使う材料は全て廃棄物で、特にキリンプラザで観た展示は、お名前のとおり、淀川河川敷の廃棄物ばかりであった。無名な事物に、淀川河川敷の廃棄物というくくりを与える事で、仮留めのような固定をする。キリンプラザの時は、より強調するように、廃棄物はそのままに有用性を与えないで、ビニールにパックして、コンビニの商品のようにラベル打ちして販売していた。今回の京都での展示では、少し違っていて、廃棄物の自転車や足こぎスクーターに魚やシャチホコのデコレーションし、実際走るところの映像を流して、若干の有用性が与えられている感じがありますね。それらは、仮留めのような固定を再度消し去り有用性の中へ戻していく、仮留めの固定の意識を忘却するような手続きをしているのかもしれないですね。
同じように廃棄物ばかりを扱った作家の、ネヴェルソンの、一旦全て黒く塗りつぶして、過去の由来を消し去り、よって来る出来事を忘却するような方法の作品を、僕は思い出した。

藤浩志さんの作品の場合、かえっこ屋のおもちゃの破片を使って、恐竜であったり、小さな城のようなオブジェであったり、形が与えられているけれど、有用性があるようなないようなものだし、そのものの由来が消し去られることも無い感じですね。
このギャラリーの北側にある疎水沿いの並木の桜や銀杏の葉も色付いて、ギャラリーの中から見ると、藤さんのドローイングやかえっこ屋のおもちゃの破片でできているトイザウルスの色とも不思議にシンクロしています。帰路、疎水沿いの桜や銀杏の落ち葉をアーチャンひろいながら行きましたが、それらいずれ土に返る断片のようなものに対しての、腐らないビニプラ達が形を与えられる事も無く溢れかえる光景を空想した。