杉本博司 歴史の歴史展

今日は国際博物館の日で、観覧無料という事なので家族で行きました。昨日から大阪府内の新型インフルエンザの情報が出ていて、地下鉄の中も美術館もマスク姿の人が多かったですね。我家は自分のセキの無い時はマスクしないし、手洗いとうがい中心の予防。美術館のカウンターにもスプレー式のアルコール消毒液が置かれていて、使いました。
展覧会の杉本博司さんの事はまったく知らない作家さんでした。歴史をメタな視点から眺めつつ、自己の作品を同化させようとする試みはユニークですが、言葉によって説明されることはよくあるし、どちらかと言えばステレオタイプな発想とも感じるところもあって、賛否分かれる展示だろうなと感じましたが、でもそれを現在生きているアーティストが具体的に自己の作品と歴史的遺産や生物化石とを等価に並置する試みは今まで見たこと無いし、その点おもしろいなと思いました。
様々な歴史的遺産の絵画や書などを掛け軸にすることは、見慣れたものですが、でもこうして、作家の強い意志の元に置いて表装されると、何故か違和感のようなものを感じてしまうのも、とても不思議に思いました。修復では無く新たな作品として文脈を転換されている事への違和感なのかよく分かりませんが。
仏像なども全て四周から見ることの出来る展示となっていて、本来宗教的空間の中では対峙して、バイアスの掛かった関係の中で見るべきものが、そのような関係性を解体されているところ、例えば最近の阿修羅像の展覧会での展示の有り様にも共通した感覚があると思いますが(興福寺の展示室では、対峙する関係性の展示で、背面は見えません)そこにある眼差しは、大袈裟に言えば、ある意味においてあらゆるカテゴリーの解体に繋がる意識とも取り得る関わり方なのかと感じますね。そのことと、自己の作品と歴史的遺産や様式とのつながりの意識や、自己観の解体とは、どこか違うようにも思います。
パンフレット文中にある、「ここに集められたサンプルは、(後略)」の文章読むと、歴史的遺産や様々な肖像含めて、サンプルと言い切ってしまうところに、一番違和感を感じたのかもしれません。
写真作品の中で、海景のシリーズは、制作年代が僕の心の師である福岡道雄さんのランドスケープのような彫刻の波のシリーズの年代と重なっているようなので、注目した。福岡さんの彫刻は波が切り取られた立体で、それこそ四周から見つめる事のできるものですが、そこにある視線はどちらかと言えば、鬱屈としたものであると感じていた。
杉本さんの海景は、彼がサンプルと呼ぶさまざまな遺物や仏像などが、本来の布置の有り様から切り離されて、自由な見取りを可能にしているのに対して、自身の作品においては、写真の限界でもあるけれど、ある視点が明示されていて、展示空間も湾曲した壁面に展開されているので、こちらはそれに順化するしかないような、バイアスの掛かった、関係性となっている。歴史的遺物や仏像などのバイアスの掛かった関係性を解体していくのであれば、それと同時に自己の作品と鑑賞者の関係も、解き放つものである事が望まれるのでは無いだろうか?僕はそう思う。

杉本博司 歴史の歴史展
http://www.nmao.go.jp/japanese/home.html
5月17日(日)国際博物館の日は観覧無料