橋下知事と語ろう〜橋下文化行政に物申す!

いつの間にかに、詳細な記録が大阪府のHPに掲載されていました。これからまだ3年以上もこんな話を聞かせるつもりなのでしょうか?
橋下さんはよほど文楽が嫌いなようですね。文楽面白いけどな。
「正直、文楽を、今の若い人達が、金払ってみんなで見に行こうと思えないのは、やはり現代に合わせたやり方をやっていないからだと思います。「お笑い」で、たまたま1カ月でブームが去ったものが、文楽においては、たまたま100年単位でそのブームが終わり去ろうとしている。もし、文楽に、伝統だという話を持ち出して完全に保護しようっていうことになるのだったら、1カ月とか2カ月でドーンと出てきたお笑いの芸人さん達をなぜ保護しないのですか。」とか、「最初は路上から、ちょっとした空き地、どこかの駅の一角などからスタートし、そして残っていく。そういう人達、残ってきたものと、文楽やクラシックとは、何が違うのですか。私は、申し訳ないが、正直、路上ミュージシャンの人達とクラシックとの違いが分からない。」などと言われています。
路上ミュージシャンの人達とクラシックとの違いが分からない」人が、学校教育について論じている現状も何だかな。

橋下知事と語ろう〜橋下文化行政に物申す!
2008年7月26日大阪府の記録から一部引用

私の文化論、なぜ、私がこういうやり方を行っているのか、その根源は何なのかっていうことを聞いていただき、それに対して皆さんからご意見を伺いたいと思うのです。
 私は、いろいろな識者と話をして、根本的に疑問を感じたのが、需要と供給ということだったのです。
 やはり、文化とか、芸術というのは支えられてなんぼやと思うのです。
 私も、メディアで仕事をさせてもらっていたので、受け入れられなかったら消えていくという、現実を見てきました。
 残るものと残らないものの違いは、やっている本人の必死さだと思うのです。どれだけ必死なのか、それも、明日にでも仕事がなくなる、明日にでも消え去るという厳しいものなのです。
 「お笑い」の世界でも、一時のブームで2,3カ月ぐっと伸び、その次には、もう終わってしまう人がたくさんいる中で、残っている人達、紳助さん、さんまさん、ダウンタウンさん、たかじんさんは、皆芸術の極みなのです。
 テレビを見ているだけだったら、「アハハハ」の笑いで終わるけど、そこの現場に行ったら、あんなの人間業じゃないですよ。「お笑い」が根付いているというのは、やっている側の、ものすごい能力と、普段の努力と、とんでもない才能で支えられるものだというのが、私の根本の発想なのです。
 文楽は、伝統芸能だとおっしゃる方がいますが、今のお笑いの中で、1カ月でブームが去ってしまった人がいる、2カ月の人もいる、1年の人もいる、5年の人もいる、10年の人もいる、期間っていうのはそんなに重要なのでしょうか。
 正直、文楽を、今の若い人達が、金払ってみんなで見に行こうと思えないのは、やはり現代に合わせたやり方をやっていないからだと思います。
 「お笑い」で、たまたま1カ月でブームが去ったものが、文楽においては、たまたま100年単位でそのブームが終わり去ろうとしている。もし、文楽に、伝統だという話を持ち出して完全に保護しようっていうことになるのだったら、1カ月とか2カ月でドーンと出てきたお笑いの芸人さん達をなぜ保護しないのですか。
 私は、ある大学の総長と議論した時、クラシックは確かに重要だけれども、他の音楽とどこが違うのか問うたことがあります。路上ミュージシャンから出てきたゆずさん、たかじんさんも飲み屋を回って500円でギターを弾きながらやってきた、円さんもそうだし、野田秀樹さんでも、みんな苦しいことをやっている、爆笑問題さんだって路上から始まっていて、なにも演芸ホールみたいなものを行政で使わせてもらっていたわけではない。
 自分達のレベルに応じた、最初は路上から、ちょっとした空き地、どこかの駅の一角などからスタートし、そして残っていく。そういう人達、残ってきたものと、文楽やクラシックとは、何が違うのですか。
 私は、申し訳ないが、正直、路上ミュージシャンの人達とクラシックとの違いが分からない。
 もしかすると、有識者とか、学者さんっていうのは、なんとなく文楽やクラシックというのが芸術的で高尚なもので、「お笑い」というものを何か低くみているのではないか、そういう気持ちが、すごくしてならなかったのです。
 私は、区別ないと思っているから、それだったら申し訳ないが、クラシックにしても文楽にしても、支えられるように、死ぬ思いで全力を尽くして、受け入れられるように工夫をしてほしいと思った。