【梅田恭子 -水底ニ吹ク、風-】展

天音堂さんからDMを頂いていたので、午後からお伺いする。9月半ば過ぎとは思えない暑さで、カーチャンなんばで体調崩し、リタイア。それで僕とアーチャンだけ見てきました。

【梅田恭子 -水底ニ吹ク、風-】展
天音堂ギャラリー堂守フォト amanedo-domori
http://amanedo.exblog.jp/

たぶん和紙と思われる荒い触感の紙に、銅版画。額縁無しで、壁にピン留めのラフな展示と、五つの詩画集。詩画集も、テーブルなどに置かれていて、直接素手で触れるようになってる。文字はとても小さく描かれているので、虫メガネが添えてあり、アーチャンも覗いています。(画像はやらせ、でもアーチャンは虫メガネが好きなので、一緒に覗いて楽しみました)

それから壁に無数に貼ってある、小さなしおりを、画廊に来た人に一枚ずつプレゼントされているとの事で、アーチャンと僕とそれぞれ気に入ったものを頂きました、ありがとうございます。

展覧会の感想
作品を作るとき、観る時に、いろいろなレベルでの親和性ということを意識する。
作品とそれを見る人との関係。
作品内のシンボル同士の関係。
作品内の材料同士の関係。
それから材料と周囲とのエッジの関係、等々。
梅田恭子さんの作品を観て感じたのは、どちらかと言えば、作品内の材料同士の親和性の部分でした。つきつめていくと、材料同士の親和性について深く考えていけば、結果的に、それを見る人との親和性に直結する、という幻想みたいなものを、僕も時々抱く事がある。ノンヒューマン環境論的な、物と同化してしまうことへの恐怖と安心感の混ざったような感情かもしれない。
しかし、表現として提示する時、どうしても、そのような感性を伝え、感じてもらう為には、その為のスキルが要請され、そこで様々な、とても醒めた作業が行われることとなる。銅板のエッジを直角に、切りっぱなしの自然な表情で見せようとすると、現実には、そこがインクだまりとなり、強い表現となるので、若干の調整が居る。紙も手漉きのまま見せようとしても、大きさの調整の中で、カットしたところと、手漉きのままのところとが、並ぶ事となり、カットしたところを、どう見せるのか、悩ましいところだ。一通りそのような課題に対して、作者の態度はきちんと示されていて、描かれた、もしくは放置された対象とは対照的に、破綻無く整然とした表情が見て取れる。それが物凄く遠い世界のようにも感じられ、僕は困惑する。
作者の感性は、整った場所の生真面目な構成に向かっているように感じられました。