若冲展

土日は混みそうなので、仕事の提出を終えてから、カーチャンと一緒に京都の相国寺承天閣美術館で開催されている「若冲展」を観に行きました。平日でも70分待ちと、大変な混雑でしたが、とても印象深い展覧会で、感動しました。
明治期に宮内庁に献納されて以来、120年ぶりの里帰りとの事、展覧会のカタログを読むと、この展覧会は25年も前から企画されて、釈迦三尊像動植綵絵を元の仏教の儀式で設えていた過去の原型の形で展示するために美術館のプランも作られたという、かなり気合の入ったものでした。
家業を弟に譲り隠居して、画業に専念し始めた40代から10年間の、気合の入った(カーチャンの印象では、隙が無い)33幅は、それぞれにインパクトがあり、観るこちらにも、それなりの心構えを要請するような、雰囲気があるので、できるだけ気持ちをフラットに、楽しんで見るようにと思いつつ、いつのまにか、ガラスに顔をこすりつけるように、のめり込んで観てしまいました。
カーチャンと僕と一番印象に残った作品は同じで、「薔薇小禽図」という日本にも古くからあったらしい蔓バラで覆われた美しいものでした。






始まりも終わりも定かでないような全体の構図と、しかしそれぞれのシンボリックなアイテムには強く視線を誘うような雰囲気があり、それはバラの花びら自体が、そのような構図を持っているというのか、全体から、ひとつの花弁に目が止まると、その花弁のまた中央へと視線が誘われと無限に続くようなリズムが心地良い。カタログを読むと、若冲再評価のキーパーソンとも言える、コレクターのジョー・プライスさんは、最初に動植綵絵30幅を観た時、3日間かけてみた、と書かれていて、その3日間は彼が生きてきた中でも極上の3日間であった、と言われているのが、実物を観て、実感できますね。ただただ観つづけて居たくなる、それだけで幸福な気分になれる、そのような絵画ですね。
美しいだけでなく、現代人が観ても、共感できるというのか、よく分らない気持ちの悪い要素が併置混在されていて、「薔薇小禽図」での、右上の黒いサンゴのような不思議な粒粒の集合が描かれていて、他の作品、例えば「紫陽花双鶏図」にも散見される、そのような、モザイク画のテイストにつながっていくようにも感じられる描写の部分が、強く心に残ります。それらが世界全体を覆い尽くすような強迫観念的なものが、彼の心の中にはきっとあり、散逸もしくは京都の大火で失われたであろう自分の為だけに描いた作品のなかに、そのようなものがあったのではないだろうかと空想してみた。





もう一つの空想する楽しみとして、動植綵絵が当時どのように配置されていたのか、資料が無いらしく、今回の展示は研究者さん達と相国寺さんとの共同研究の結果としての回答とされているようですね。宗教的な意味合いはよく分らないので、解説をもう少しいろいろ読んでみないと理解出来ませんが、興味深いですね。個人的には、印象として中央に釈迦三尊像があり、その左右に対称形に動植綵絵が15幅ずつ配置されているので、密教的なマンダラ的な効果を感じます。相国寺さんは臨済宗禅宗のお寺とありますから、マンダラ的な表現は無いのかもしれませんが、自由連想として、マンダラの配置として解釈すると、左辺が遠方で、理想郷的な世界、右側が近く親しい可触的な世界として構成できないだろうかと空想する。
若冲の絵の中で月や太陽は右上に断片として描かれているので、遠近配置についても彼のこだわりがあるのかもしれません。
展示では、同じテーマで描かれた二対を左右に分けて対面させるように置かれているようですが、そのような対称形を若冲は果たして思い描いたのかどうなのか、誰も知らないのですから、答えはありませんが、それ故に想像力を刺激するところですね。

2006年6月4日追記
個人的に、いろいろ気になるところや、実際に観て違和感のあったところなど、カーチャンと話し合っていて、資料が無いのだからと、素人なりに、自由に自分なりに並び替えて、想像してみる。
一番違和感のあったのは、老松鸚鵡図(オーム)の位置でした。正面を舞台の鏡板のように見立てると、釈迦三尊像の両脇は、やはり老松で固めたい。しかも老松図は四点と左右対称なので、左から「老松白鶏図」「老松白凰図」「老松孔雀図」「老松鸚鵡図」と並べて、鏡板とする。その脇を鶏のみで描かれた「群鶏図」「大鶏雌雄図」を配置する。これらは季節感とは縁の無いものと感じる。
そこで両サイドをどのようなコンセプトで並べるか?
釈迦三尊像を拝する軸を、東西軸と解釈して、正面に対して右手が北、左手を南とすれば、北には秋や冬の景色や、冷たい海の底の群魚図が適するだろう。南には、薔薇、牡丹、梅、向日葵、などの春から夏にかけての活気のある花と動物の絵が並ぶと思う。こうして並べてみると、ほぼ全ての主軸の動物達が釈迦三尊像の方へ顔を向けることになる。
会場でもう一つ違和感があったのは、左手手前に鯛のいる「群魚図」が置かれていて、いきなり釈迦三尊像から遠ざかるように見える形になっていたことと、群魚図が左右対称に離れて置かれていたので、並べた時の、魚の向きのベクトル感の強さが失われていた事ですね。これらを同じ面でならべると、とても強い表現となると思う。
若冲はどんな風にイメージしたのか想像するだけで楽しいですね。その時々のテーマに応じて、適宜配置は自由に置き換えていたのかもしれないですね。

http://www.shokoku-ji.or.jp/jotenkaku/
承天閣美術館のHP

時間が経つに連れ、自由連想が広がります。「薔薇小禽図」から、中原中也の詩が思い浮かびます。若冲のバラの描き方も、幾何学的なイメージを強調していますね。

中原中也の詩は著作権きれているので、「青空文庫」で読めます。
僕はその中の「むなしさ」という詩が好きですね。海岸線という一次元と2次元の中間体から、薔薇という二次元平面の花弁を集合させてできる3次元の立体に移り、最後に「偏菱形(へんりようけい)=聚接面(しゆうせつめん)そも」という不思議な3次元と4次元立体の中間のような表現で終わる、空間の循環詩とも言える。

在りし日の歌
作品名読み: ありしひのうた
著者名: 中原 中也 
http://www.aozora.gr.jp/cards/000026/card219.html
青空文庫より
http://www.aozora.gr.jp/index.html

むなしさ

臘祭(らふさい)の夜の 巷(ちまた)に堕(お)ちて
 心臓はも 条網に絡(から)み
脂(あぶら)ぎる 胸乳(むなち)も露(あら)は
 よすがなき われは戯女(たはれめ)

せつなきに 泣きも得せずて
 この日頃 闇を孕(はら)めり
遐(とほ)き空 線条に鳴る
 海峡岸 冬の暁風

白薔薇(しろばら)の 造化の花瓣(くわべん)
 凍(い)てつきて 心もあらず
明けき日の 乙女の集(つど)ひ
 それらみな ふるのわが友

偏菱形(へんりようけい)=聚接面(しゆうせつめん)そも
 胡弓の音 つづきてきこゆ

また、若冲の動植物への視線と描き方から、以前拝見した、図鑑画家の牧野四子吉の世界も連想します。以前ここに書き込んだ日記リンクする。

「いきもの図鑑 牧野四子吉の世界」展
http://d.hatena.ne.jp/prader-willi/20040409/p3

牧野四子吉生物生態画集

牧野四子吉生物生態画集