信濃橋画廊にて福岡道雄『腐ったきんたま』展を観る

昨日の読売新聞夕刊で、これが最後の個展とあったので、観ておきたいと思いました。僕の心の師とこちらで勝手に思い込んでいるだけですが、それ故に頭の中を空っぽにして、脳みそにイメージが染み込むように見つめていました。
黒い台座に小さな造形物が2個組、2個組、7個組、8個組、4個組と高さや台座の表面の微妙なテクスチャーを変えながら、ただ置かれている。

福岡道雄『腐ったきんたま』展
信濃橋画廊にて12月28日まで
http://travel.kansai.com/event/0512/06.html

会場に福岡先生居られたので少しお話する。残り少なくなったパンフレットも頂く。現代美術の作家(年齢にかかわらず)で、これだけ丁寧に個展のパンフレット作る人、どれだけいるだろうかと、思う。伝える事が困難なイメージであっても、可能な限りの方法を使って伝える努力をすること、改めて、いいなと思う。たいていの個展の案内状は作品の画像と日時の案内程度、それでイメージや考えている事が伝わる訳が無い。
いつか僕が制作再開して個展する時に、このようにありたいと思いました。
そのパンフレットに書かれたテキストは、『腐ったきんたま』というユニークなタイトルそのものの説明でもあるが、現在のアートの批評のレベルについての批判でもあると感じた。
実際、会場に三つの新聞社の紹介記事が掲示されていたが、そのどれもが、作家のインタヴューと、これが最後の展覧会であることを強調するものばかりで、肝心の作品に対する、コメントが無かった。一番ひどい新聞社のものには、さすがに耐えられなかったか、福岡先生が訂正のコメントを添えている。『前衛を担う片鱗でありたい』という主旨の発言を『前衛を担う変人でありたい』と聞き違えて、そのまま記事にされている。文脈的におかしいし、それを読んで、いったい何人の人が、この展覧会を観に行きたいと思うのか、少し考えれば分りそうなものだ。
結局、タイトルの『腐ったきんたま』という言語の部分に考えが固定されてしまって、直接目の前の作品を、素直に見ることができなくなってしまうのであろう。作品自体は、イメージをピュアに表現された物であって、多様なイメージを喚起するものであって、『腐ったきんたま』=男性原理の否定というメッセージは、そのような言語による、イメージの固定化そのものに対する違和感そのものではないだろうかと思う。